夏のおでかけ
春が来たと思ったら突然、夏になる。
いつの間にか太陽が輝きを増していて、あたたかくて暖炉に火をいれなくてもよくなる。窓が開け放たれて、いい空気が書斎を通って廊下に抜けていく。
ユイは庭を探検して、ちいさな白い花とか、うすい青い花とか、大きな鮮やかな色の花とか、大木に一斉に咲いた花を眺めてはお菓子の材料を探したりしていた。
魔導師も一人でぶらりと散歩をしているようで、ユイはときどき庭で遠目に見かけた。そんなとき、ふいにユイは最初に出会ったときを思い出す。
ウサギ罠を外してくれたときのことを。
庭には池もあるし、川もある。大きな庭で、屋敷も大きいけれど屋敷があと五つほど建てるとユイは思う。
小鳥のさえずりに、川の水音、木漏れ日の光の乱舞。土は柔らかく、草はつやつやと光を受けて幸せそうに見える。
「魔導師様~!」
るんるんと歩いていると、すぐ側に魔導師を発見した。思わず大きく呼ぶ。
魔導師はユイを見ると立ち止まって待ってくれた。ユイは走って追いつくと、魔導師の目の前にある白い花を見つけた。
「魔導師様、これ見てたの?」
花を見つめるユイに、魔導師は少し考えてから答えた。
「香りを……」
ユイはその答えを最後まで聞かずに、花に鼻を近づけて香りを嗅いだ。甘くて澄んでいて、心地のいい香りがする。
「ふぁあ」
うっとりと目を閉じるユイに魔導師は目を向けた。
香りをいっぱい吸い込んだユイは、そのまま魔導師と目が合い、幸せで笑みを浮かべた。魔導師は笑みにほんの少しだけ苦笑すると、目を反らしてまた歩き始めた。
「魔導師様?」
ユイはその後ろをついていく。
どこに行くのかな。
魔導師は金の髪を日に透かしながら、ゆっくりと庭をめぐる。木を見てから、池を見て、川を見る。ときどき小鳥が肩にとまっては、飛び立つ。
どんな顔をして庭を歩いているのか、ユイには分からない。だからと言って、前に出て行って魔導師の顔を覗き込むこともちょっとできない。
黙って一時間ほど散歩すると、屋敷に戻った。
メイドが出てきてお茶を運んでくる。
「ありがとう」
ユイはその冷たいお茶を飲むと、元気がでてくるような気がした。
「あのね、魔導師様。この間ご本で『海』っていうのが出てきたの。魔導師様は見たことがある? 水がどこまでも広がってるんだって。すごいね」
沈黙の魔導師はお茶を飲む手を休めて「見てみるか?」と聞いてきた。
ユイは応答があったことに驚いて、次に内容にびっくりした。
「見れるの?」
小さな声でユイはたずねた。不安な気持ちがふくれあがる。
「地面がないのに、見られるの? お水ばっかりなのに?」と矢継ぎ早に言葉が出てくる。
「大丈夫だ」
魔導師は少しばかり思案気にしていた。
このごろユイは魔導師の人となりがだんだん分かってきた。
ユイが屋敷にいて、何もしなくてもいいことも分かった。最初は何かしなければならないと思っていたけれど、屋敷は奉公先ではなくて、魔導師のおうちなのだ。
そこに住んでもいいと言われたわけだから、できるだけ勉強をして、魔導師のお邪魔をしなければいい。
うるさくしすぎてはいけないらしい。
お菓子は作ってもいいけれど、魔導師が食べることはあんまりない。
ものすごく優しい。
無表情だけど、これは単に仏頂面なだけだ。笑わないしね。でも、それでもやっぱりとってもきれいだけど。
今、海を見せてくれると言う魔導師は、きっと夏が気持ちよくて嬉しいんだろうと思う。
だから、きっとお出かけに連れて行ってくれるのだ。
ユイはそれから半時もせずに庭に出て、はじめて天馬を見た。魔導師が何か言うと、どこからか飛んできたのだ。
「掴まっていなさい」
馬に乗ると、魔導師の前に座らせてくれて、しっかり手綱を掴まっているようにと念を押した。
「はぁい」
それからあっという間に森がなくなり、農村がちらりと見え、怖くて目を閉じているとすぐに大量のお水が流れているような音がした。
魔導師は馬を降りて、暑そうに夏服の長衣の襟元をゆるめた。それを見ていたのは一瞬で、目の前にある海に釘付けになっていた。
すごい。きれいな青い海、白い砂、それにもっと青い空には白い雲がぽっかりと浮かんでいる。
海に来たというのに、魔導師は岩に寄りかかって本を開きはじめている。
ユイは走って波を追いかけて遊んだ。足につめたくて気持ちがいい。
とても不思議だった。
きれいな水はすこし塩辛く、白い砂はどこまでもさらさらで、そして、限りないほどの青い水の広がりが目の前にあるのだ。
「大きい~、広い~。きれいー! 魔導師様、すっごいね!」
とこ冬に近い故郷をもつ二人だが、あきらかに魔導師はあまり嬉しそうではない。いつもどおりの仏頂面に、暑そうに結われている髪。切れ長の蒼い目はとろりと溶けそうな光彩を放ち、魔導師がとても暑さに弱いとわかる。
一方、ユイは魔導師に与えられた半そでの一枚布でできた服を着て、すずしく走り回る。
周囲に人はいない。
広がるのは白い浜辺と、どこまでも透き通った碧い海だけだ。
「魔導師様~、水、冷たくて気持ちいいですよ~」
両手を口元にあてて大きく呼びかけるユイだが、足元の波がくすぐったく、声に笑いがにじんでしまう。
魔導師は目を上げてユイを見る。そして、また視線を下に落とした。
そのうち、ユイは砂浜に隠れている貝殻や、石を見つけて、宝物を見つけた気持ちで魔導師に見せた。
「ほら、魔導師様、きれいでしょ?」
手のひらにいくつか貝殻や、透明になった石が転がっていた。
魔導師はどう応えるべきか迷うふうだった。風がやわらかにそよいでいる。海風はとてもすがすがしい香りを持っていた。
魔導師の視線がひとつに向かい、気になったように指先でつまんだ。
「それ、すごくきれい」
ユイは我を忘れるように石を見つめた。
「魔導師様は海に入らないの?」
魔導師はとろりとした視線を返す。
「暑いな……」
本を無造作に砂浜に置くと、石をユイに返してから立ち上がった。
「あつい」
ゆらり、と歩き始める魔導師に、ユイは驚いてついていく。
ユイも暑さにいそいで波の近くまで走る。
「魔導師様、きもちいいね!」
長身の背中は波に足を入れても止まらずに、腰まで水に浸かってようやくとまった。
おもむろに、頭から水に潜るとあっという間に姿が消えた。
「ま、魔導師様?」
水の中を見ようとするが、ユイには魔導師の入っていった深さは怖くて行かれない。
なかなか出てこない。
「魔導師さま~?」
不安が突き上げてくる。ユイは胸あたりまで海に入って目をこらす。
ときどき波がユイの足をすくって恐怖へ染め上げる。
「…あ、本…」
本を置いてどこかへ行くはずがない。そう思ってユイは海から上がった。
手の中の宝物のような石や貝は、本の近くへ置く。
すると魔導師様が遠くにいることがわかった。
「あんな遠くに行ってたんだ」
よっぽど暑かったのだろう。遠目だが、めずらしく気持ちよさそうに見えた。
しばらくユイは波間に見える魚を見て遊んでいた。魚が足もとにいて、なんだかたのしい。知らないうちに、笑っていた。
そうして遊んでいた手を止めて、ユイはふいに気付いて魔導師を見つけた。
長衣を右手にたくし上げて、水を絞る魔導師は、幼い少女の視線に気付かなかった。
自分の魔導師をときどき老人のように思うユイだが、今は若く見える。いつもあんな感じでいたらいいのにと、ちょっと思う。
海から上がると魔導師の元へ走っていく。
「暑くなくなった?」
「すこし涼んだな」
魔導師は持っていた大きな棘のあるきれいな貝殻を差し出してきた。
「わぁ、大きい…」
ユイは貝殻を受け取って、本の近くにある宝物のところに駆けて行く。
けれど、とユイは思う。
魔導師様は灰色の長衣ばかり着るけれど、こんなふうに薄着でいるのもいい。若く見えるし、とてもきれいだ。
浜辺に寝転んだ魔導師は、ぼんやりと日光に対峙している。眠るというわけでもなく、気持ちよさそうにのびのびしている。
何よりも本に目も向けない。
「魔導師様って、本当は海好きでしょ?」
波の音が寄せてはかえす。時は止まっているかのように感じる。
何も答えない魔導師にユイはちょっとだけ目をやると、くしゃくしゃになった髪など気にせずに濡れた服を乾かしていた。




