第1話
「2時35分にレジの呼び出しボタンを3回押すと、場に『きて』が来る」
「店長……本当にやるんですか?」
「もちろん。せっかく待ったのに、ここで帰るなんてもったいないじゃないか」
「うぅ……」
明かりの途絶えたフロアに、一筋の懐中電灯の光が灯る。現在時刻は2時10分。スーパー「レピノ」に勤める花巻静華と工藤蓮はある噂の真相を突き止めるべく、いまだに店内を放浪としていた。
「て、店長。やっぱり帰りませんか? きっと、誰かが流した悪いいたずらでしょうし」
「ダメ。パートさんも困ってたでしょ? あの噂のせいで、仕事に集中できないって。だから、僕たちで確かめるんだ。静華さんが言うように、『きて』なんていないってことを」
「うぅ……それはそうなんですけど……」
ぶるぶると体を震わせながら、静華がおそるおそる足踏みをする。
ネット掲示板に載せられた、奇妙な噂。
「2時35分にレジの呼び出しボタンを3回押すと、場に『きて』が来る」
1月20日の夜、ネットの2ちゃんねるにて、この奇妙な文章が投稿された。投稿者は井西異夢という無名の2ちゃん民だったらしく、『きて』というのが一体何なのかもいまだにわかっていない。だが、それを面白おかしくとらえたのか、これを読んだ他の2ちゃん民は瞬く間にこの噂を広げ、今ではネットニュースのトピックへと立つほど有名なオカルト話となっている。
公にはされていないが、実のところ、いくつかの企業はもうすでにこの噂を検証したらしい。しかし、結果はすべて「何もなかった」の一点張りであり、やはり単なる誰かのいたずらではないかという声も強くなっている。なお、私もその意見には賛成であり、『きて』の存在については信じていない。どこかの誰かが面白半分で作った、架空のオカルト話なのではないかと思っている。
けれど、いくらその存在を否定していたとしても、やはり怖いものは怖い。深夜の売り場を出歩くことなどこれまでなかったし、非常口を照らす緑色の光ですらなんだか不気味に思えてしまう。ただ……。
「花巻さん、楽しみだね。本当に幽霊がいるなら、ぜひ会ってみたいなぁ」
今はこの暑苦しい店長がいるおかげで、皮肉にも幾分かは恐怖をしのげている。
この通り、店長は私と違い、重度のオカルトマニアである。近くにある心霊スポットを巡ったり、UFOを見れると話題の田鎖山へ行ってみようなどと、ことあるごとに私へオカルト話を持ち掛けてくる。もちろん、そのような誘いはすべて丁重に断り、これまでも店長へ付き添うことはなかったのだが。
けれど、今日はたまたま清算の過程でトラブルが生じ、この時間まで残業を強いられることになってしまった。それを都合がいいと思ったのか、店長が仕事終わりで早く帰ろうとしていた私を引き留め、今に至るというわけである。
正直、全く乗り気ではない。店長からは「あと数分だけ!」と念を押されたが、それでも仕事での疲労はかなり溜まっている。一秒でも早くこの場を去り、家のベッドで眠りたい気分だ。
「えーっと、そろそろかな……」
蓮が腕時計に懐中電灯の光を当てて、時間を確認する。
「今は2時20分か。例の時間まであと少しだね」
「うぅ……帰りたい」
怖気づく静華の姿を見て、蓮がにかっと笑いを浮かべる。
「大丈夫だって。 幽霊と会っても、殺されたりなんかしないよ」
「そ、そうですね……」
まるで、これから幽霊と会うのが当然であるかのような口ぶりだ。やはり、店長の考えていることは理解できない。
「よし、売り場の中は大体確認したし、そろそろレジへ向かおうか」
「はい……」
未知の体験に胸を躍らせている蓮の姿を前にし、静華はひとり場違い感を否めなかった。
「それにしても、『きて』って何なんだろうね。みんなが言うように、やっぱり幽霊の名前なのかな」
「たしかに分かりませんよね」
話をつなげるため、静華が興味をなさそうにその場しのぎの言葉を放つ。
言われてみれば、確かに変な名前だ。『きて』という謎の文言についてはいまだに有名ユーチューバーやオカルト研究家によって調査が進められているが、どれも信憑性に欠ける情報ばかりである。『きて』という名前の人物が本当に実在していたのか、それとも、やはり誰かのいたずらで名付けた名前なのか、真相は闇の中である。
「あっ、そういえば、呼び出しボタンって何番のを押せばいいんですか」
レジへ向かう途中、静華が思い出したかように蓮へと問いかける。
レピノ東山店には、有人レジ10台の他にセルフレジと、支払用の機械が多数設けられている。例の文章には「呼び出しボタンを3回押す」とだけしか書かれていなかったが、いったいどのボタンを押せばいいのだろうか。
「ふっふっふ……。そこなんだけどね、たぶん『2番レジ』だと思うんだ」
「えっ、どうしてですか?」
蓮がためらいもなく答えたことに、静華が疑問を持つ。
「例の文章の投稿者さ、あの他にも、なぞなぞを中心に面白い問題を投稿してたみたいなんだ。まあ王道だと、タヌキの画像と一緒に意味不明のな文字の羅列が表示されて、そこから「た」だけ抜くと一つの文章になる、みたいな」
「なるほど……でも、それって今回の件と無関係なのでは?」
「それが、僕は違うと思うんだ。花巻さんは例のあの文を見て、何か変だと思わなかった?」
「いえ……別に」
「僕は変だなって思ったよ。特に、最後の方。場に『きて』が来る、ってところ」
「なにか、おかしいでしょうか?」
「うん。『場に』なんて言葉、わざわざ入れる必要ないなって思ったから」
「あっ、本当だ。言われてみれば、確かに変ですね」
「でしょ。そこで、僕は考えたんだ。井西異夢がわざわざ『場に』なんて書き残したのは、『きて』がレジでなく、《《別の場所》》に現れることを暗示するためだったんじゃないかって」
なるほど……。店長の言い分にも一理ある。確かにこれは、井西異夢が仕掛けた巧妙な罠なのかもしれない。
例の投稿に書かれていたのはこうだ。
「2時35分にレジの呼び出しボタンを3回押すと、場に『きて』が来る」
なぜ、井西異夢はわざわざ「場に『きて』が来る」などと周りくどい書き方をしたのか。普通に読んでいれば、「レジの呼び出しボタン」と書かれているため、同じように『きて』もレジへ現れるものだと読者は思い込んでしまうことだろう。けれど実際は、『きて』が現れるのはレジ以外の、別の場所であった。異西異夢が「場に」などとあえて書き残したのは、このことを伝えるためだったのかもしれない。
「なるほど。なんだか私も、興味が湧いてきました。それで、店長は『きて』がどこに現れると推測しているんですか?」
「いや、普通にレジだと思ってるよ」
「……は?」
「あぁ、ごめんごめん。勘違いさせちゃったかな。『きて』が別の場所に現れるんじゃないかって考えたのは最初だけ。あとから、それは間違っていると思ったよ」
きょとんとする静華に対し、蓮がさらに一言を添える。
「だってそれじゃ、《《あやふやすぎる》》と思ったから」
蓮が真剣なまなざしで真っ暗闇の中、静華の顔色をうかがう。
「あやふやすぎる……ですか?」
「うん。まぁここからは僕の憶測も入ってくるけど、問題を作る人ってさ、一つのはっきりとした答えを用意すると思うんだ。それこそ、1+1は2になるって決まっているように」
「なるほど……。店長が言おうとしていることは、なんとなく分かります。でも、そんな曖昧な憶測が、さっきの推理を否定するだけの十分な理由になりますか?」
「まぁ、確かにね。でも、『きて』がどこか別の場所に現れるなんていう抽象的な答えよりも、さらに確実性のある明確な答えが見つかったとしたら、どうする?」
静華はふと、先ほど蓮が「2番レジ」のボタンを押すべきと主張していたことを思い出した。
「どうして、2番レジが答えになるんですか?」
「ふっふっふ。それを今から今から説明するね。花巻さん。例の文章の投稿者、誰だったか覚えてる?」
たしか、井西異夢という名前の2ちゃん民だったはずだ。
「井西異夢は、たびたび2ちゃん上に娯楽としていくつかの問題を挙げていた。そこで僕は、この不思議な名前にも何か秘密が隠されていると思ったんだ」
「なるほど。確かに、ありえなくはないですね。それで、何かわかったんですか?」
「ふふっ。花巻さんは何だと思う?」
蓮のからかうような口調に、静華はむすっと頬を膨らませた。
「もったいぶらないで、教えてくださいよ」
「あはは、ごめんごめん。井西異夢っていう名前さ、見方を変えると、数字に分けることもできるよね?」
「あっ……。ほんとですね。いにしいむ……12416。確かに、数字でも表せます。でも、これだけじゃまだ、何のことかさっぱりです」
「僕も困ったよ。過去の投稿を見たけれど、数字を使った問題なんて一つもなかったし、この数字が何を示すのか全く見当もつかなかったから」
そういうと、蓮は腕を組み、悩んでいるような表情をわざとらしく見せつけてきた。
「そんな時、さっき言ったあの文の違和感について思い出したんだ」
「さっきの……『場に』が余計についてるってことですか?」
「そうそう。そこでね、この12416の数字に従ってあの文を左から順に読めば、ある単語になるんじゃないかなって考えたんだ」
蓮が人差し指を立て、自信ありげに答える。
「なるほど……。でもそうすると、組み合わせがいくつかありますよね」
気づけば静華も蓮の推理に呑まれ、ともに思考を巡らせていた。ポケットから自分の携帯を取り出し、例の文章が掲示されたサイトを開く。
「文字数は……読点や鉤括弧も含めたら32文字ですね。そうなると、32より上の数字の組み合わせはあり得ませんよね」
「そうだね。となると、考えられる組み合わせは『12、4、16』と『1、24、16』の2通り。これに従って、左から順に文字を繋げ合わせて見てほしい」
「『12,4、16』だと、該当するのはそれぞれ『出、5、ン』。これだと、意味が分かりませんね。そしてもう一つ、『1、24、16』だと、当てはまるのは『2、場、ン』……2番」
「ご名答! だから僕は、2番レジのボタンを押すのが良いと思うんだ」
そういうと、蓮は自信ありげな様子で鼻を伸ばし、生き生きとした表情を見せた。
なるほど……確かに、偶然にしては出来すぎている。井西異夢が作問を得意としていたことから見ても、店長の推理はあながち間違っていないのかもしれない。
携帯のまばゆい光が、周囲を照らす。蓮は再び腕時計を確認しつつ、着々と《《その時》》が近づいていることに胸を高鳴らせていた。
「2時32分、か。そろそろだね。花巻さん、準備はいいかい?」
「いや、私は初めから心の準備なんて出来ていないんですけど……」
静華は大きくため息をつきながら、これからの行く末について、いまだに不安を感じていた。
『きて』とは、いったい何なのだろうか。ネットニュースでは幽霊だとか神だとかそんな予想が立てられているが、いまだに真相は不明なままである。そして井西異夢は、いったいどのような意図であのメッセージを残したのだろうか。考えれば考えるほど、謎は深まっていくばかりである。
「もう少し。あと、10秒。10、9、8……」
深夜のスーパーに、嬉々としたカウントダウンの声が響き渡る。静華は高揚する蓮の姿に呆れながらも、無意識に柔らかな笑みをこぼしていた。
「5、4、3、2、1。よし、時間だ。ボタンを押すね」
そう言うと、蓮は時計から光を離し、近くにある呼び出しボタンへと手をかけた。
『係りの方は、2番レジまでお願いいたします』
1コール目のアナウンスが、店内へどよめく。