壱
静岡県内にある一つの田舎町。私_篠崎栞はそこにある一軒家に一人住んでいる。厳密に言えば一人で住んでるわけではなく、一応両親もこの家には住んでいる。
だが、両親は私に興味がないらしく、普段は家に帰らず出かけており、久しぶりに家に帰ってきたと思えば、なけなしの三千円を私に渡して再び出かけてしまう。そんな日々は小学生の時から続いていたが、家に一人で過ごすようになったのは中学に上がってから。
「行ってきます」
そうして私は今日も、誰もいない家を後にし、学校へ行く。
* * *
『起立、礼。着席』
『ご苦労、では授業を始める。教科書三十二ページを……』
授業の始まりのチャイムが鳴り、号令が終わるとともに、先生が黒板に板書を始める。現在は6限目、今日最後の授業は国語である。だが私にとって授業というのは退屈でしかない。授業でやることといえば主に三つ。一、黒板の板書をノートに写す。二、教科書に書かれた問題等を解く。……まあこれは教科にもよるか。
『じゃ、この『竹取物語』の最初の部分を……篠崎、音読頼めるか』
そして三、先生に聞かれたことにスラスラと答える。ちょうど私が当てられたので、私はその場に立って音読を始める。……教科書を持たずに閉じて。
「えー……『いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。 野山にまじりて竹を取りつゝ、よろづの事に使ひけり。 名をば、さかきの造となむいひける。』」
『そこまで。さすが篠崎、完璧だな』
『皆も篠崎を見習えよ~』という先生をよそに、音読を終えた私は再び席に着く。先生は私を「さすが」とか「完璧」と言っていたが、この程度の暗唱なんて誰でもできる。出来ない奴がいるとしたら、そいつはよっぽどの馬鹿なんだろう。
『また篠崎さんだけ褒められてる……』
『やっぱ教師と寝たんでしょ。さっすが、放置子のやることは違うね』
周りからそんなヒソヒソ話が聞こえるが、そんなことはどうでもいい。いちいち気にして反論しようとするのは、それこそバカのやることだ。言いたけりゃ好きなだけ言わせてやればいい。
『そこ、授業中は私語を慎めよ』
ヒソヒソと話していた二人の女子が注意される。ほれ見たことか。
『続けるぞ。えー、この時の翁は……』
そんなこんなで授業が進んでいき、数十分後、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
『よし、今日はここまで。音読テストも行うから各自練習しておくように』
* * *
帰りのHRが終わると、周りはより一層騒がしくなる。ほとんどの奴らがグループを作って、やれ「一緒に帰ろうぜ」だの、やれ「寄り道していかない?」だの、なんともまぁお気楽な事。さて、私もそろそろ帰るとしよう……
『ねえねえ、篠崎さん』
だがそこで、クラスの中心ともなっている女子グループの一人に話しかけられた。
「……なに」
『キャッ、こわーい! そんな睨まないでよ』
脇目も振らずにブリブリとしまくる女。来世はブリになって美味しく頂かれるのかな……
「用が無いなら話しかけないで。私はもう帰るから」
『えー、どこに~? あ、わかった! パパ活でしょ! 篠崎さんみたいな放置子はそんなことしなきゃ生きていけないもんね~www』
キャハハ!と下品な声で笑うそいつらに、私は呆れてしまった。
「まさかそんなくだらないことを私に言うためにわざわざ引き止めたの? そんな万年発情期のサルみたいな思考をしてるから、私に負けるんでしょ。おサルさん?」
『なっ……!』
はい論破。いや、論破というには相手が弱すぎだ。どっちかっていうと煽りだな、これ。
「性欲に熱心なのは良いことだけど、たまには予習復習もしなよ。でないとまた先生たちに注意されちゃうからね」
『……っ! うっさいのよ!』
刹那、パンッ!という乾いた音が鳴り響く。私は逆上したこの女に平手打ちをされたのだ。
「流石に言い過ぎたか……」
そう言いながら殴られた方の頬を撫で、状態を確認した。
(あ、これ内側切れてる)
だからと言って別に気にするほどのものでもないが、ちょっと面倒くさい。
『なんだ! 一体何の騒ぎだ!』
そうして騒ぎを聞きつけた教師によって事態は収束し、私はようやく帰路を辿れるのであった。
⌘
「ん、美味しい……」
私は今、つい先ほど買ったたい焼きを頬張りながら帰路を歩いている。あのあと先生が保健室で見てもらうよう勧めてきたが、
『平気です。すぐ治るので』
と言うと、少し怪訝な顔をしながらも、そのまま帰るのを止めなかった。
「あ、治ってる」
たい焼きを頬張りながら、私は切れていた頬の内側を舌で撫でるように確認した。
私には生まれつき、人並外れた自己治癒能力が備わっている。それに気づいたのは小学校二年生の時。盛大に転んで擦りむいた膝の傷が、絆創膏を貼って数時間ほど経ってから再び確認した時にはすでに完治していた。その後も裁縫セットの針で指を刺した時も、包丁で指を切ってしまった時も、治る時間に違いはあるが、すべて普通じゃ考えられないくらいのありえない速度で完治していたのだ。
もちろんこのことは私以外は誰も知らない。言ったところで信じてもらえるはずもないし、逆に信じられても、それで何か変な研究施設に入れられて人体実験をされたりでもしたらたまったもんじゃない。
「ま、そもそもそんなことを話す友達もいないけどね!」
放置子だの、教師と寝ただのと噂されてるような人間に友達なんてできるかっての! と、そんな風なことを考えながら歩いていると、偶然蹴った道端の石ころがテンテンと跳ねながら飛んでいき、
……そして、転がった石はその先で倒れている人間にぶつかった。
「……へ?」
さすがの私も動揺を隠せなかった。まさか道端で、しかも気温三十度を超えた真夏日のコンクリートにうつ伏せでぶっ倒れてる人がいるなんて、いったい誰が予想できただろうか。
「えぇ……」
怪しさしかないと思いつつも、そろりそろ~りとその物体に近づいてみた。
「……と、とりあえず、まずは仰向けに……」
そう思い、ゆっくりとその身体をゴロンと仰向けにすると、
「わ、綺麗……」
その人は、まさに絶世の美女とも言えるような和風美人の女性だった。若干昭和みを帯びたレトロチックな黒いワンピースに、この炎天下の中でもサラサラとシルクのように流れる黒く長い髪。これを美女と呼ばずに何と呼ぶのだろうか。
……ただ、一つおかしなところがある。この真夏の炎天下に一人放置されているのにも関わらず、汗の量は少ないし、心なしか顔色もそこまで悪いようには見えない。
なんというか……不気味だ。
「……あ、あの? 大丈夫ですか?」
だが返事は返ってこない。少しの間なら、放っておいても大丈夫かな……? 携帯は持ってないし、救急に連絡するなら麓のバス停近くにある公衆電話にかけないとだから……
「……あ、あの、救急車を呼んでくるので、少し待っててくださいね」
返事が期待できないと知りながらも、私は形式的に言葉を発し、麓へと走り出そうとした。まさにその時だった
「呼ばなくていいわよ」
その声に思わず私は足を止め、恐る恐る先ほどの女性の方へと振り向くと……
「それに、呼びに行くなら、少なくとも日陰に移動させてからでしょう? なぜ直射日光が照りつける場所に、意識を失った人間を放置しようと思ったのかしら」
先ほどの瀕死状態が嘘のように女性はケロッとしていた。
「うわぁ!? ゾ、ゾンビ!?」
「ゾンビ? ……ああ、動く死体のことね。失礼しちゃうわ」
さっきまで死体みたいにビクともしなかったからですが!?
「ハァ、そんなことよりのどが渇いたわ~。誰か飲み物でもくれないかしら~?」
そう言いながらも女性はチラッチラッとこっちを見てくる。いやいやいや! よく見なさい栞! こんな『怪しい』という言葉を擬人化させたような存在に手を貸すなんてどうかしてるわよ!
ま、まあ!? もとより幼少期から鍛えられた私の警戒心に誓って、絶対にこの女の手助けなんてしないんだから!!
* * *
「いや~、助かったわ。喉カラッカラだったのに自販機も何もなかったから死ぬかと思ったわよ」
「アハハ、ソーデスカー……」
「有難うね、親切な娘さん」
「イエイエ……」
はい、結局家に上げてしまいました。私の誓いは一瞬で砂と化しました。
「氷があればもっと良かったんだけどねぇ」
「あいにくと、うちには氷を買ってくる余裕は無いんですよ」
「あら残念」
そう言いつつも作り置きしてた麦茶を丸々2リットル分飲み干してしまった。厚かましく、遠慮を知らない、信じられないほど失礼な女だ。
「んで、結局あなたは何なんですか? 今のところただの怪しい女性としか思えませんよ」
「ん~……別に名前を教えてもいいけど、貴女絶対信じないわよ」
「いいから教えてください」
名前を聞き出したら、すぐに警察に通報し、この怪しい女を独房に送り込んでやる。
「かぐや姫」
「……はい?」
予想外の答えに、思わず声が裏返ってしまった。
「だから、かぐや姫。私の名前よ」