褐色の三日月を歪めて、
ダラナの右頬には大きな傷痕がある。
なんてことはない、幼い頃に負った傷の名残だ。
十歳の時、おつかい帰りに偶然猫が馬車に轢かれかけているのを目撃し、咄嗟に猫を抱えて馬車を危機一髪回避したものの、勢い余ってそのまま道脇の植え込みへと突っ込んでしまい、そこにあった鉄柵の先でザックリ切った。
もちろん傷を負った時はめちゃくちゃ痛かったのだが、正直そのあと色んな大人にしこたま叱られたり心配されたりしたことの方がダラナの記憶には深く刻まれている。
そうしてダラナの右頬には、淡い褐色をした、細長い三日月のような傷痕が浮かび上がることとなった。
――“女の子なのに、可哀想にねぇ……”
年端もいかない少女の顔に大きな傷痕がある事実は、わりとセンセーショナルなものらしい。
ダラナはこの二年間、“可哀想”という言葉を浴び尽くした。
多感な時期にそんな状況におかれては、反発するなという方が無理な話である。
浅慮であったと反省はしているが、ダラナは己の行動を決して悔いてはいない。幼い自分の勇気の証を、まるで悲劇の象徴かのように扱われるいわれはない。
そんなに言うなら、もう“可哀想”だと思えないくらい、この傷痕が似合う人間になってやる。
そうしてダラナが積もりに積もった怒りと勢いのまま、人類最強の斧使いを目指そうとした矢先、彼女に「待った」をかけたのは、幼馴染で一つ年上のイヴァンであった。
イヴァンは、父の友人の一人息子である。
昔からよく親にひっついて互いの家を行き来しており、親同士が話し込んでいる間に、子ども同士でも交流し暇をつぶすのが、ここ数年の両家の通例となっていた。
ちょうどその日も、イヴァンの父が彼を伴って訪問して来ていたため、ダラナは幼馴染を中庭のベンチへと連れ出した。
そこでさっそく自身の斧使い計画のことを話してみたのだが、彼はあまりいい顔をしなかった。
金の睫毛にふち取られた緑色の目を細め、何かを言おうとして、やめて、口を閉じる、という仕草を二度ほど繰り返した後、幼馴染は言葉をしぼり出す。
「色々と言いたいことはあるが……まずどうして斧使いになりたいんだ?」
「武器の中で一番強そうだから」
「…………。具体的にはどう修行するつもりなんだ?」
「山にこもろうかと思ってる」
「…………」
「…………」
「…………」
「いたっ!」
黙り込んでしまったイヴァンを見守っていたら、突然彼に額を指で弾かれた。けっこう痛い。
ヒリヒリと痛む額を手で押さえ、いきなり何をするのだとダラナが抗議の目を向ければ、イヴァンはさらに顔を険しくしてこちらを見ていた。
「こんな攻撃でさえ痛がってるくせに、本当に斧使いになるつもりか?」
「っでも、でも、バーナードさんの許しは得てるんだよ!」
「誰だよバーナードさん!」
バーナードさんは町の東に住む元・木こりのおじいさんである。ダラナが人類最強の斧使いを目指しているのだと相談したら、「夢を持つのはいいことだ」と自分のお古の斧まで譲ってくれたのだ。斧にしては随分と軽くて、刃の部分もすべて木で出来た小ぶりのものだったが。
「それ子ども用のおもちゃの斧だろ! 宥められてんだよバカ!」
「ゔ……」
今まで目を背けていた現実を容赦なく突きつけられて、ダラナは言葉に詰まる。
額から力なく下ろした自身の腕は細く弱そうで、人類最強など程遠い。
……本当は、ダラナだって分かっているのだ。自分がいかに無謀な夢を見て、現実逃避をしているのか。
「……でも、でもそれじゃあ……私はこれからもずっと、“可哀想”なままなの……?」
そう呟いた瞬間、身のうちで張り詰めていた何かが決壊する感覚がして、ダラナの視界はぼやける。
怪我をした時でさえ決して泣かなかったというのに、未来への底知れない絶望が、彼女の心を容赦なく握り潰し、涙をとめどなく溢れさせる。
堪えきれずダラナが俯いた拍子に、彼女の横髪がはらりと垂れて、右頬にある悲劇の象徴を覆い隠す。
けれど、そっと横から伸びてきた指先がそれを優しく払い除け、再び褐色の三日月を陽の下に露わにした。
「……泣くな」
ぶっきらぼうな声かけに、顔を上げて隣を見れば、綺麗なハンカチを「使え」と無理やり押しつけられる。
横髪を梳いてくれた指先はもういなくなってしまって、それがひどく名残惜しかった。
肌触りの良いハンカチを有難く使わせてもらい、ダラナが少し落ち着きを取り戻した頃、イヴァンはひとつひとつの言葉を慎重に選ぶようにしながら話し始めた。
「まず大前提として、お前は“可哀想”なんかじゃない」
「……うん」
「それから、周りの奴らはお前がただ弱そうだから“可哀想”と言ってくる訳じゃない」
「そうなの?」
「ああ。たぶんそれはお前が女だからで……嫁の貰い手がなくなるとか、そういう意味も含まれてる」
「…………」
途中まごつきながらも、イヴァンは丁寧に説明してくれたから、彼の言わんとしていることはダラナにも理解できた。
その上で、「……でも私、傷のあるなしで相手を判断するような人と結婚なんてしたくないよ」と少し幼稚な反論をしてみれば、「当たり前だ」とめちゃくちゃ食い気味で返された。ちょっとびっくりした。
「……まあ、お前がどうしてもと言うなら、僕がもらってやらんこともない」
「ほんとう?」
何故かそっぽを向きながら告げられた、幼馴染の思いがけない申出に、ダラナは声の調子を弾ませる。そうして目元をふにゃりと緩めて、本当に安心したように笑った。
「よかった。ちょうど今私も、もしお嫁にもらってくれる人がいるんならイヴァンがいいなぁって思ってた! 貴方の隣にいるのが一等好きだから」
「なっ……」
「待ってて! 父さん達にイヴァンと結婚することになったって言ってくるから!」
「ちょ……」
照れ隠しに滲ませた積年の想いが突如として実り、イヴァンが呆然としている間に、すっかり元気を取り戻したダラナは母屋の方へと駆けて行く。流石は先程まで人類最強の斧使いを目指していた女と言うべきか、思い立ったら行動に移す速度が尋常じゃない。
「これは本当に現実か……?」
ベンチに一人取り残されたイヴァンがそう呟いたのと同時刻、母屋の方ではダラナからの報告を聞いた彼女の父親が泡を吹いて倒れたのだが、それはまた別の話である。
そうしてダラナとイヴァンの結婚が極めてハイスピードに決まったものの。
二人ともまだ未成年であったため、じゃあ即入籍!というわけにもいかず、成人する十八歳までは婚約期間ということで両家とも落ち着いた。
途中、ダラナの父が「婚約期間を三十年くらいにしない?」と言い出したり、イヴァンがダラナと会うたびに自分の頬をつねる謎の行動をしたり、プチハプニングはありつつも、それ以外は特に大きな事件もなく、はや五年の月日が経とうとしていた。
晴れて十七歳となったダラナはというと、今は女学校に通い、時間のある時は父の商いの手伝いする日々を過ごしている。
一方、幼馴染もとい婚約者となったイヴァンは一足先に成人を迎え、高等学校を卒業した今は町の騎士団庁に勤めている。
ちなみに彼の入庁の際、ダラナは純粋な好奇心から騎士団に斧使いはいないのか尋ねてみたのだが、「まさか弟子入りするつもりか……?」と疑念に満ち満ちた顔で問い返されてしまった。そんなんじゃないのに。
やはりバーナードさんから譲り受けたあの斧を、五年経った今でも自室の壁に飾ってあるのがいけないのだろうか。でもあれは防犯対策にピッタリだし、眺めていると初心を思い出して気が引き締まるので手放し難い。
いっそのことイヴァンの分の斧も用意して、婚約記念のおそろいアクスということで手打ちにしてもらうのはどうだろう。試しに言うだけ言ってみようか。
そんな取り留めのないことを考えながら、ダラナは朝食のトーストを一口かじる。
「……あら?」
そうして芳醇なバターの香りをムシャムシャ楽しんでいると、向かいの席に居たダラナの母が、ふと何かに気づいたらしい声を上げた。
一体なにごとかと視線をそちらに投げてみれば、ダラナと同じ栗色の瞳がこちらをまじまじ真剣に見つめている。
「どうしたの母さん」
「うーん、ちょっと横向いてみて」
「?」
目的は不明だが、特に拒否する理由もないのでダラナは言われるがまま横を向く。母と向かい合った右耳が、「やっぱり、気のせいじゃないわよね」と何か確信を得たらしい彼女の声を拾う。
それから視界の端でうんうん嬉しそうに頷いているのが見えた後、明るい調子で母は続けた。
「ダラナ。貴女の傷痕、だいぶ薄くなってきてるわよ!」
「……え?」
◇
右頬の傷痕が、薄くなってきている。
その指摘を受けたダラナは、朝食の後すぐに母の寝室へと向かった。自宅の中で、最も上等で鮮明に写る鏡台がある部屋だからだ。
――バタン
部屋の扉が閉まる音を背負い、奥へ進んで目当ての鏡台前に立つ。鏡面を覆うレース編みの布を捲れば、年相応に大人びた茶髪の女と目が合った。
そうして女は黙って顔をそらし、縋るようにして自身の右頬を注視する。
見つめた先には、淡い褐色をした、細長い三日月がまだあった。
けれどその痕は、記憶にあるものより遥かに薄まっている。おそらくこの薄さなら、化粧で隠して目立たなくすることも可能だろう。
そうすればきっと、ダラナはもう“可哀想”だと言われることもなくなる。そしてダラナが周囲の言葉に傷つく心配がなくなれば……なくなれば、どうなる?
「…………」
――いや、別にどうもしない。これは実に喜ばしいことで、恐れることなど何もない。
だから、今ダラナの胸の内に湧き上がるこの感情は、おかしい。
鏡に映る自分の顔が、不安と憂いの色に染まっているのは、おかしい。
これ以上、傷痕が薄くならないでほしいと願うのは、おかしい。
……でも、もし。もし傷痕がこのまま本当になくなってしまったら、イヴァンとの結婚はどうなるのだろう。ダラナが“可哀想”じゃなくなったら、彼の隣に立てる理由がなくなってしまうのではないか。
「……ちがう、そんなことない……」
イヴァンはそんな人じゃない。彼は傷のあるなしで今さら態度を変えない。そんなこと、この五年間彼の隣にいた自分が一番よく知っているはずだろう。
今のダラナの思考は、今まで自分に対して心を尽くしてくれた人達の顔に泥を塗るものだ。この傷痕は悲劇の象徴ではなく勇気の証だと、そう奮い立った過去の自分自身を踏みにじるものだ。
そう頭では理解しているのに、感情を上手く抑えられない。ひどく身勝手で利己的な考えを止められない。
『……でも私、傷のあるなしで相手を判断するような人と結婚なんてしたくないよ』
『当たり前だ』
ふいに脳裏に、イヴァンと交わした過去の会話がよみがえる。
何も知らない過去の自分が挙げた特徴が、一体誰に当てはまるのか思い至って、ダラナはきつく目を閉じる。
鏡台の前で俯き、震えた声で呟いた。
「いちばん最低なのは、私だ……」
それから少し時間が経って、次の日の午後。
ダラナの家にイヴァンが訪ねてきた。
別にイヴァンが突撃アポなしお宅訪問を仕掛けてきたわけではなく、昨日今日と女学校が休みなのと、彼が本日午後から非番であったため、もとより会う約束をしていた。
先日一緒に出かけた際に、中庭に植えてある春咲花が見頃だからぜひ見にきて!と呑気に誘ったのをよく覚えている。まさか当日をこんな沈んだ気持ちで迎えることになるとは思っていなかったが。
ともかく今のダラナはゲストを迎えるホスト側なわけである。たとえ自己嫌悪に苛まれて絶不調だとしても、ゲストであるイヴァンに快いお花見体験を提供するのが主催者としての礼儀というものだろう。
そう自分に言い聞かせ、既に中庭へと通されているという婚約者を出迎えるべく、ダラナは平静を装っていつものベンチへと向かった。
ここで重要なのは、足取りが重く元気がないのを相手に悟られないようにすることである。やはり一番効果的なのは笑顔を浮かべることだが、今は傷痕の件もあってあまり顔面に注目されたくない。
そこでダラナは出来るだけ陽気に見えるよう拍手をしながらイヴァンに近づくことにした。大きな音で気を引き、顔ではなく手元に意識を向けさせる作戦だ。
――パチ、パチ、パチ
一音一音を両手でしっかり奏で、ダラナはゆったりとした歩みで婚約者のそばに行く。そうして彼の隣に到着した後、「ようこそ」と心ばかりの歓待の言葉を添えた。
「なんだその黒幕みたいな登場の仕方」
「ようこそ」
「二回も言わんでいい」
どうやら“拍手で陽動作戦”は失敗したみたいだ。怪訝な顔をして見てくるイヴァンを何とかいなして、まあまあ花でも眺めましょうやとベンチに並んで腰かける。
「…………」
「…………」
自然と訪れた沈黙の中、花壇に並ぶ春咲花たちが風にのってそよそよと踊る様子が目に入る。それは本来であれば心癒される光景のはずなのに、今は右隣に座る婚約者のことばかりが気になって、ちっとも集中できないから困った。
ちらりとダラナが隣を盗み見れば、新緑を思わせる双つの瞳がこちらを向いた。少し皮膚が厚くなった指先がそっと伸びてきて、いつかのように横髪を優しく払い除けてゆく。
薄くなった傷痕を見られたくない気持ちと、彼の指を拒みたくない気持ちの二つが胸の内で混ざり合って、ダラナは思わずぎゅっと目を閉じた。
「悪い、どこか痛かったか?」
「っちがう、待って」
止まって離れかけたイヴァンの手を、ダラナは咄嗟に追いかけて掴む。
イヴァンは一瞬目を丸くしたが、緊張が走るダラナの表情を認めた後は、そのまま黙って手を繋ぎ直してくれた。
それを見ながら、ダラナは渇いた口を開く。
「……五年前、イヴァンが私をお嫁にもらってやるって言った時のこと、覚えてる?」
昨日から、ずっと考えていた。
どうして、傷痕が薄くなったことでこんなにも不安になるのか。今まで自分に対して心を尽くしてくれた人の気持ちを疑うような思考に陥ってしまうのか。
『……まあ、お前がどうしてもと言うなら、僕がもらってやらんこともない』
『ほんとう?』
『よかった。ちょうど今私も、もしお嫁にもらってくれる人がいるんならイヴァンがいいなぁって思ってた! 貴方の隣にいるのが一等好きだから』
『なっ……』
『待ってて! 父さん達にイヴァンと結婚することになったって言ってくるから!』
『ちょ……』
五年前から、その答えはずっとあった。――ダラナがずるいやり方で、イヴァンの隣を手に入れたからだ。
「貴方のその言葉を聞いたとき、……私、“助かった”って思ったの」
好きな人との結婚が決まった際、普通はどんなことを思うのが正しいのか分からない。でもきっと、“嬉しい”と喜んだり、“恥ずかしい”と照れたりはするんじゃないかと思う。
けれど、ダラナにはそれが無かった。喜びも照れもなく、「ああ、もうこれで安心だ」と、絶望の淵からすくい上げられた強い安堵感だけが、ただそこにあった。
「私の返事にイヴァンがすごく驚いて戸惑ってたのも、本当は気づいてた。……でも、気づかないふりをした」
当時のイヴァンが自分に対して向けてくれていた感情に、卑怯にもつけ込んだ。同じだけの想いを返す覚悟もないままに、彼に甘えて縋りついた。
「正しい関係のはじまりじゃないって、間違ってるってことも分かってた。……それでも、私にはこの傷痕があるから、」
「ダラナ」
「私には傷痕があるから、私は“可哀想”だから、ずるくてもどうか許して、って、そう思って……」
「ダラナ、こっちを見ろ」
言われるがまま隣を見たが、イヴァンの顔はぼやけて見えない。道に迷ってしまった小さな子どもみたいに、途方に暮れた気持ちが胸に押し寄せてきて、ひどく息苦しい。
「っどうしようイヴァン、傷痕がなくなったら私、わたし、あなたの隣に居れなくなる……!」
目尻に溜まった涙を一筋こぼし、そう言ったと同時、ダラナはイヴァンに抱きしめられていた。繋いだ片手はそのままに、背に回されたもうひとつの腕が強く強く、ダラナの身体を掻き抱く。
彼とこれほどまでに密着したのは、婚約する前にも後にも、これが初めてのことだった。驚いて思わずダラナが顔を上げれば、こちらを射抜く緑色と目が合った。
「お前は“可哀想”なんかじゃない」
慰めなんかじゃ決してない、強い確信を宿らせた声が耳に響く。
「たとえ間違っていても、ずるくても。――そこから変わりたいと、誠実でありたいと願って必死にもがくことができるのは、お前が持つ“強さ”だ」
「っ、」
「そういうしなやかな強さを持つお前が、僕は好きだ」
目の前にいる彼が、随分と耳心地の良いことばかり言うから、ダラナは夢みたいだと思った。
けれど、背に回った力強い腕の感覚が、服越しに伝わる温かな熱が、これは現実だと教えてくれる。だから、ダラナはようやく力を抜いて、イヴァンに正面から向き合った。
「……私も、あなたが好き」
この想いはきっと、五年前にはまだ育っていなかった感情だ。苦しくて、辛くて、理想とはまるで違う、ずるくて未熟な自分を嫌でも見せつけられる、そんな感情。
だけどその感情が、自分は一体どうなりたいのか、どうしたいのか、導いてくれる。
「私は、強くありたい。あなたの――イヴァンの隣に、胸を張って立てる人間になりたい」
凛と決意に満ちた声でダラナがそう告げた瞬間、彼女の身体はイヴァンによって再びぎゅっと強く抱きしめられる。「もうなってる…………」と、深く何かを噛み締めるようにして彼が耳元で喋るから、少しくすぐったかった。
「ねぇ、イヴァン。……私の傷痕、だいぶ薄くなったの」
「……そんなの知ってる。ずっと隣で見てたから」
当たり前のように返されたその言葉が、どれだけダラナの心を救うのか、きっとこの人は気づいてない。
それが何だかおかしくて、ダラナは頬にある褐色の三日月を歪めて、美しく誇らしげに笑った。