9月8日(日)−2
浄華ビルに足を踏み入れ、未だ慣れない関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉の前まで進む。
遠慮がちにインターフォンを押すと「お待ちしておりました、どうぞ」という返答ののち、扉の鍵が開く音が響いた。
「どこかにカメラでもあるんだろうなぁ」
こちらが何も言わないうちに開けられたので、映像で確認しているのだろう。まさか、時間だからと空いても見ずに開けたとも思えない。
中へ進むと、エレベーターがちょうど到着し、開く。
「おはようございます」
扉が開き、華嬢が現れた。今日も美しさに変わりはなく、朝から素敵なものを見られた私の心は踊る。
いい一日になりそうだ。
「おはようございます。ちょうどいらっしゃったので、驚きました」
「いえ、そろそろかなと思っておりましたし、鍵の操作をしてすぐにエレベーターに乗り込んだものですから」
華嬢はそう言いながら、エレベーターに誘導する。圭がやっていたようにセンサーに顔を近づけて網膜認証させ、閉ボタンを押した。
「昨日はよく眠られましたか?」
「ええ、なんとか。片桐さんの運転が心地よくて、熟睡してしまった割に」
「まあ」
華嬢はくすくすと笑う。笑うと可愛らしい印象を受ける。
他愛のない話をしていると、エレベーターはあっという間に到着する。
「どうぞ」
華嬢に先行してもらい、いつものように応接室へと通される。
ああ、またこのふかふかのソファに座れるなんて。
私は、尻から背中を包み込むその柔らかさに、身を委ねる。なんとも心地よい。
このソファ、いったいいくらするんだろう。きっと高いのだろうけれど、今まで貯金もある程度あることだし、えいやっと飛び降りる気持ちで買えないだろうか。
勇気を出して華嬢に聞いてみるか。いや、さすがに恥ずかしいか。
(でも、一人掛けなら……)
そこまで考え、気づく。
恥を忍んで購入したとして、一体私の部屋のどこに置くのだろうか。
いつも過ごしている部屋の真ん中には、どーんとこたつ机が置いてある。居心地が良いながらも狭い我が家は、ベッドとテレビ、こたつ机を置いたらすでにぎゅうぎゅうになってしまっている。何しろ、ベッドがソファ代わりになっているのだから。
それに、ソファを購入してしまったら、こたつに入れなくなる。
そう、おしゃれな家にこたつはない。子どもの頃から今に至るまで、友人の家に遊びに行って思うのは、おしゃれな家にこたつは存在しないということだ。
現に、この応接室にこたつはない。
当たり前と言えば当たり前だけれども。
「どうされましたか?」
珈琲を私の前に置きながら、華嬢が尋ねてきた。
「あ、いえ。いいソファだなぁと思って」
「お気に入りなのですね」
ふふ、と華嬢が笑う。そうして、傍らから一枚の紙を出した。
明細書だ。
「こちらの明細書に書かれた金額を、近日中に振り込ませていただきます。この度はご協力のほど、ありがとうございました」
「はあ」
私はぼんやりと思い返す。そういえば、特殊契約書に、銀行口座も書いたっけ。
そして明細書を手に取って確認し、ぶっと小さく吹いた。
おかしい。金額がおかしい。二日間の仕事をこなした金額じゃない。
「あの、これ」
「詳しくは明細の内訳をご確認ください。その上で、何かありましたらお願いします」
私は項目をざっと見る。車代や基本給と言ったところは、ちょっと高めではあるものの、そこまで驚く金額というわけではない。
問題は「危険手当」だ。
これだけで、会社の月額半分くらいある。
「こ、この、危険手当、というのは」
「この度の件、どう考えても貴方の厄付という体質を利用しなければ、解決できませんでした。ですが、体質を利用する以上、絶対の安全確保を行えるわけではありません。下手をすれば、貴方の一生を奪っていたでしょう。ですから、その金額は正当なのです。少ないと言われてもいいくらいです」
ちょっと早口に言われ、私は「はあ」と一応納得するしかなかった。一生を奪っていたかも、とまで言われると、どう返していいか分からない。
私的には、圭についていって、田舎のお宅に一泊させてもらい、ちょっと不思議な体験をした、くらいなのだけれども。
というか、そのちょっと不思議な体験すら、危うい。何しろ、よくわからないままに全てが終わっていたのだから。
微妙ながらも頷く私を見て、華嬢は微笑んだ。満足そうだ。
「他に、何か質問などありますか?」
「あ、そういえば。別口ってどこなんですか?」
私がそう尋ねると、華嬢の動きが止まった。笑顔のまま。
しまった、聞いてはいけない類だったか。
「あ、その……ちょ、ちょっと気になっただけなので、別に絶対知りたいっていう強い志を持っているわけでもなくて、その」
私があわあわと弁明すると、華嬢はぷっと噴き出したのち、苦笑交じりに「分かりました」と答える。
「他言無用で、お願いしますね」
「はい。努力します」
私が答えると、華嬢は「では」と口を開いた。
「日本中に、今回の水越村の土地神システムといったような、表沙汰にはならない土地がたくさんあります。それらは、殆どが一か所に情報を集約させています。霊的なもの、力場的なもの……そのような、はっきりと目には見えない、だが確実に存在するものを取りまとめ、表に出回らないようにしているのです」
「表に出てはいけないんですか?」
「目に見えないものを強く信じ、納得させるのは難しいでしょう。何しろ『心霊現象の謎を暴け』などというテレビ番組も存在するくらいなのですから」
ああ、よく夏にやる奴か。
「あれも、単なる霊現象だ、とだけ認知するならば、それでもいいのです。ですが、メディアはそれを『暴こう』とする。それを後押しするのは、そういった不可思議な現象を良しとしない、大衆です」
それもそうか。怖いもの見たさで見るものの、それが本当にあることだったら怖いから、現実にはあり得ないものなのだ、と思いたい。
だからこその『暴け』だ。
「目に見えない、よく分からないと言って放置すれば、今回のようになります。土砂崩れや水害といった、目に見える厄災として現れる。それを防ぐためにも、情報の集約は必要なことなのです」
「でもそれは、大変な作業じゃないですか? 日本全国なんですよね。その情報を一つに集約するだなんて」
そこまで言い、はっとする。
そんなことができるのは、限られている。日本中の情報を集約できる場所なんて、数えるほどもない。
「おそらく察されていると思いますので、これ以上は言いません。つまりは、そういうことなのです。対策予算として確保された金額が、存在します。それらは我が社のような会社に補助金としておろし、いざ何かあったら……例えば今回のようなケースに遭遇したとき、更に対処金としておろすのです」
「そういえば、圭君が言っていました。情報が集められないって」
「そこが管轄している土地は、表向きの情報しか出してきませんから。それらを担当する職員が、詳細を頭の中に叩き込んで管理しています。なので、詳しい情報を知りたければ、担当者に会うしかないのです」
「情報規制が、きっちりしているのですね」
「はい。紙に残しているのは、最低限の情報だと言います。それすらも幾重ものセキュリティロックがしかれているとか。つまり、情報が漏れたとすれば」
「担当者しかありえない、ということですか」
「あとは……当事者と対処にあたった者でしょうか。いずれにしても、簡単に情報源を引き当てられるようになっています」
すごい。
思わず感心してしまった。
「もし、担当者の方に何かあったら、どうなるんですか?」
「そうですね……とりあえず脳が無事ならば、なんとかなると思いますけれど」
さらっと怖い事を言われたような。
あえて突っ込まないようにしよう。
「なんだ、おっさん来てるじゃん」
そう声がしたかと思うと、どす、と私の隣に圭が座った。
「よく眠れた?」
「鈴駆さんと同じことを言うんだね。よく眠れたよ」
「そっか」
私が答えると、圭はどことなくほっとしたように答えた。
私が眠れたことは、重要なことだったのだろうか?
不思議に思っていると、圭は、にっと笑って私の背中を叩く。
「いいっていいって。気にしない気にしない」
圭は軽く叩いたつもりかもしれないけれど、ちょっと響いているから。痛いから。
「桂木、失礼よ」
「あ、悪い悪い。じゃあ、昼食食べに行こうぜ。この近くなんだろ? その、華お勧めの和食の店って」
「予約は11時半にとってあるから、まあ、少しくらい早い分にはいいかしら」
華嬢が時計を見ながら言う。時計を見ると、午前11時を指していた。この近くというのだから、少し早く着くくらいになるだろう。
「宜しいですか?」
華嬢に問われ、私は頷く。むしろ、それも楽しみにしてきているのだから、宜しいに決まっている。
「よっしゃ、いっぱい食べよう」
上機嫌の圭に、華嬢が「ちょっと」と声をかける。
「桂木、ほどほどにしなさいよ。また出入り禁止になるわ」
「でもさ、大食いの番組いっぱいあるし、流行ってるんじゃない?」
「そういえば、よくやってるね。圭君は出ないのかい?」
「好きなもん食べれないのが、やだ」
なるほど。納得だ。
「では、行きましょうか。経費で落としてあげるけど」
「へいへい、ほどほどで」
「よろしい」
華嬢はそう言って微笑んだ。
私は華嬢と圭の後ろをついていき、浄華ビルから外に出る。
どことなく、風が涼しいような気がする。
「秋が近いのかな」
小さく呟くと、耳の奥にせせらぎが聞こえたような気がした。
それは、水越村全体を流れゆく、川の音にも似ていたのだった。
<白き鎧は村を守り・了>