9月6日(金)-1
失敗した。
私は時計を見ながら、速足で歩く。
時計は14時を指しており、その時間はとうの昔に午後へ突入している事を表している。
携帯電話を確認するが、圭からの連絡はない。それがより一層、罪悪感と恐怖を増している。
私が行くのが遅いと、イライラしているのではないか。
それ以上に、ドーナツ屋さんの在庫は万全なのだろうか。
さすがの圭も、ドーナツ屋の在庫全てを食べきるとは思えないが、お店の人の動揺を誘うくらいはしているかもしれない。
午後休みを取るところまではうまくいったのだ。
特にアポも入らなかったし、朝一でトラブル連絡もなかった。月初めだから集金もないし、軽く週報でも書きながら、来週の予定でも立てようかなぁくらいの気持ちだった。
それなのに、トラブルの連絡がよりにもよって、11時に入る。
慌てて各方面に確認を取り、なんとか解決したのが12時。
胸をなでおろしながら退社作業をすると、ちょうど昼休みに入った同僚が、やれ何の用があるのだとか、やれ彼女だとか、やれ親に何かあったのかだとか、とにかく理由を聞いてきたのだ。
まさか私も「意思を持つ人形に会いに行きます」なんて言えるわけもなく、ましてや「非常食代わりになってきます」などと言えるわけもなく、ただただ曖昧に「ちょっと休みたい気持ちで」みたいなことを言いつつ、その場を濁した。
そうこうするうちに時間は経ち、タイムカードを押し、いったんアパートに戻り、ようやくドーナツ屋へ向かっている。
私の事情など知らないのだから、圭はただただ待たされているだけだし、ドーナツ屋のドーナツを貪っているだけだ。
せめて、私の昼食代わりになりそうなドーナツが、一つくらいは残っていればいいのだが。
息を切らしながらドーナツ屋に入ると、大きな皿が5枚くらい重ねられたトレイの前に座る、圭の姿があった。
私を見ると、不機嫌そうに「遅い」と言われた。言われても仕方ないが、そもそも時間は決めていなかったはずだ。
「ごめん。でも、もうちょっとだけ待ってもらってもいいかな?」
「何で?」
「お腹空いてさ」
「俺、結構お腹いっぱい」
「いや、それはそうだろうけど。私は昼ご飯、食べずに来ているから」
私が言うと、腰を浮かしかけていた圭が、もう一度どかっと椅子に座った。待ってくれるらしい。
「オレンジのでかいやつな」
それで手を打とう、ということか。
私は「ありがとう」と告げ、ドーナツのあるカウンターへと向かう。心なしか、ケース内のドーナツが少ない気がする。そして、店員さんが私を見て吹き出しそうになっている気がする。
どれだけ食べたんだ、圭。
私は限られた在庫の中から、甘いドーナツ2つと甘くないパイ、コーヒー、それに圭曰くオレンジの大きいやつを注文した。
レジで支払いを済ませ、商品を受け取って圭の元に戻ると、圭はオレンジを見て少し笑った。
ご機嫌が少し回復したらしい。
「それだけで足りるの? おっさん」
「むしろちょっと多かったかな、と思ってる」
「3つしかないじゃん」
「普段は2つ食べたらお腹いっぱいなんだ」
特に甘いものは、普段よりもすぐお腹が太る気がする。年齢的なものだろうけれど、認めたくない自分もいる。
「俺は、最低でも5つは食べないとやってられないけどね」
どこか誇らしそうな圭の前に積まれた皿を、私は目だけで数える。
なんと6枚もあった。5枚くらいあるとは思ったが、まさか6枚もあったとは。
一皿にどれくらいのドーナツを乗せるんだろうか……3個、いや4個は乗るか。そうすると、24個は食べていることになる。
人は、ドーナツを、24個も食べられるのか。
「一応確認してみるんだけど、圭君、ドーナツ何個食べたんだい?」
「何個だっけ。忘れた」
忘れてる!
「あ、でももうちょっと食べようと思ったら食べられるけど、飲茶とか食べたから、まあいっかって思って」
「飲茶まで食べたのかい?」
「皿が邪魔だから返したけどさ」
ずずずず、と圭はオレンジジュースを啜る。もう半分超えている。
私は「そっか」とだけ返し、食べるのに集中する。お腹が空いているからいけると思ったが、やはり一つ多かったかもしれない。
「圭君、ドーナツ一個食べないか? やっぱり多かったみたいだ」
「え、いいの? じゃあ遠慮なく」
圭はそう言うと、私の皿に残っているドーナツをひょいっととると、二口で食べた。
早い。
「じゃあ、片桐を呼ぶか」
「あ、じゃあ何か買っていった方がいいかな? コーヒーとか」
片桐さんは、浄華の専属ドライバーだ。快適な車の運転をしてくれる、凄腕ドライバーでもある。そこで、運転してもらうのだから、差し入れ的なものをしようかと思ったのだ。
私が言うと、圭は肩をすくめながら「いらねぇって」と返す。
「そういうの、片桐は百も承知だから。つか、下手に何か渡すと、片桐の予定が狂うじゃん。飲み物にしろ、食べ物にしろ、片桐は自分が運転しやすいように、考えて持ってきたり持ってこなかったりしてるから」
なるほど、ちゃんと考えて動かれているんだな。
「それじゃあ、感謝だけにさせてもらおう」
私が言うと、圭は笑った。どことなく、嬉しそうな顔だ。
店員さんに好奇の目を向けられつつ、私たちは店を出た。もう九月だというのに、じり、と太陽が熱い。
「そういえば、圭君と同じドーナツを食べちゃったけど、大丈夫かな?」
「何が?」
「同調」
私が心配して言うと、圭は「ないない」と言って笑う。
「おっさんは俺のを見て決めてないし、俺もおっさんのを見て決めてない。ついでにおっさんの厄もまだ喰らってないし、同じものを摂取したっていう意識が薄いから大丈夫」
前回、私は圭から止められていたにもかかわらず、つい好奇心から圭と同じものを意識して食べてしまった。その結果、同調という現象が起こり、圭が見ている世界の一端を見ることになった。
いわゆる、霊のいる世界だ。
好奇心に負けてしまった代償とはいえ、もう二度としたくない体験だった。
私がほっと胸をなでおろす様子を見て、圭は悪戯っぽく笑う。
「そんなに気になるなら、一応、やっとけば?」
「え、なにを?」
「腹に力を入れるやつ」
ああ、下っ腹に力を入れ、背筋を伸ばす奴か。
これをすると、心と体が自分は自分だと認識し、同調が薄れるのだという。
私が実践すると、圭は「そうそう」と言う。
「同じ店で食べたくらいじゃ、同じになるわけないんだからさ」
圭がそう言うと、目の前のロータリーに白いセダン車が止まった。
「お待たせしました」
後部座席の扉が開き、運転席から朗らかな声が響く。
「今日も宜しくお願いします、片桐さん」
はい、と片桐さんは微笑んだ。
「それでは、出発いたします。途中でサービスエリアに寄り、到着予定は一時間半後でございます。ただし、何かありましたらいつでも申し付け下さい」
「よろしく」
「いつもありがとうございます」
圭に続いて言うと、片桐さんは少し驚いたようにした後、またいつもの笑みで「かしこまりました」と返した。
心なしか、少し嬉しそうな気がした。