9月7日(土)-9
金色の目をした圭は、私の両肩を持ったまま口を大きく開いた。
吸血鬼が首元に噛みつくような状況を、思い出す。映画か、ドラマか、アニメか。どれで見たのかよく覚えていないけれど、若い女性が路地に追い込まれ、美しい吸血鬼が牙をむき、首元に噛みつく。
そんな映像が、頭に浮かんだ。
残念ながら、圭は吸血鬼ではないし、私は若い女性でもない。当然だけれども。
圭は私の肩辺りで何かにかぶりつく。私にはよくわからないが、厄なのだろう。たんなる生ぬるい風のような気がしているが、圭にはそれが見えるのだ。
人形から出てきた、厄が。
圭が何度も噛みつくたび、人形の方からカタカタという音が聞こえた。圭越しに目をやると、小さく震えているようだ。
スマホのバイブレーションを彷彿とさせる。
最初は怖いと思っていたが、人形の下にスマホが置いてあると思うと、ちょっと面白くなってきた。
思わず口元だけでにやけてしまうと、圭に睨まれる。おっと、いけないいけない。腹に力を入れるのを、忘れていた。
私が慌てて腹に力を入れると、圭は大きく口を開け、また何かにがぶっとかぶりつき、天を仰いだ。
そうして、そうめんかそばでもすするかのように、すうううう、と大きく吸い込んだ。
「華!」
天から目を逸らしながら、圭が叫ぶ。そうして、圭は私の肩から手を離し、人形の方へと向かう。
自由になった私は、華嬢の方を見る。華嬢は両手を天に向かって伸ばしている。
手には、環になった長い糸を持っている。
あれは、あやとりだろうか。
「……あやとり?」
華嬢はあやとりを素早く動かし、様々な技を繰り出していく。あやとりには詳しくないので、どういうものかはよく分からないが、素早く動かされる糸で形作られるものたちが、どんどん変化していっているのは分かる。
そういえば、と圭の方に目をやると、圭は人形を手に取り大きく振りかぶっていた。
投げるのか? それ、投げるつもりなのか?
「汝が役目、ここに果たされ消えるのみ!」
圭が大きく人形を地面に向かって、叩きつけた。
投げたというか、叩きつけた!
ガシャン!! という大きな音とともに、人形はあっけなく粉々に砕け散る。
「ここに結界、完成せり」
華嬢の言葉が聞こえ、そちらに目をやる。華嬢は手にしていたあやとりを、すう、と手から逃れさせていた。
いろんな技を繰り出していたと思うのに、もとの糸に戻っている!
どちらも同時に見ることができなかったから、一体何がどうなったのかが分からなくて、ちょっと残念だ。
「終わりました」
華嬢はそう言い、にっこりと笑いながらあやとりを懐に収めた。
「もう、その、新しいシステムというのは完成したんですか?」
私が尋ねると、華嬢は「ええ」と頷いた。
「こっちの破棄もできた。特に問題が起こらなくてよかったな」
圭はそう言って、にかっと笑う。もう目が金色ではない。
そして彼の足元には、粉々になった人形の欠片が飛び散っている。
力いっぱい叩きつけたとはいえ、畳の上なのに粉々になるなんて、たいそうな力だ。
感心していると、圭が「おっさん」と声をかけてくる。
「これ、別に俺の物理的な力で砕いてないから」
「え、そうなのかい? 畳の上なのに、すごいなぁって思っていたんだよ」
「おっさんの肩にいたやつを喰らって、その力で叩きつけたんだよ。完全に破壊しないといけないから」
「そうなのか」
なるほど、と頷くものの、やっぱりよくわからない力が働いたのだ、ということくらいしか分かってはいない。
圭はそんな私を察しているものの、まあいっか、と呟いていた。なんとなく分かっているのならいいや、と思ってくれたのかもしれない。
「何かが変わったようには、思えないのですが」
三枝の声がし、そちらを見ると、玄関の方から三枝、総司、空美の三人が庭に出てきていた。派手な音につられてきたのだろう。
「変わったら、いけませんから」
華嬢はそう言って微笑んだ。あえていうのならば、人形が粉々になったことだろうけれども。
「い、いいえ、変わりました。人形が壊れているし、もうあの変な威圧も感じませんし」
空美はそう言いながら、人形だったものの残骸を見た。「もう、大丈夫」
「歌子さんは……もう、いないんですね」
少し寂しそうに、総司は言う。生まれてきたときからずっとあった人形だ。あったものがなくなるというだけで、それがどんなものであろうと、寂しさが出てしまう。
私は実家に飾ってあった、木彫りの熊を処分したときを思い出した。別に必要ないし、飾る場所もないとのことで、両親が捨てたのだ。生まれた時からいたその熊に、特に愛着はなかった気がするのだが、やはりどことなく寂しかったのを覚えている。
「もういない。俺が喰った。残っていたものも、砕いた。だから、もうあいつはどこにもいない」
きっぱりと、圭が言い放つ。そこまで言わなくても、と思っていたら、圭が続ける。
「寂しいだとか思うのは勝手だけどさ、やっぱり傍にいてほしいだの、もう一度会いたいだの、そういうのは絶対に口にしてはいけない。あいつは、人形は、もういない。どこにもいない。そう、はっきりと自覚してほしい。同じことが、起こらないように」
華嬢は、人形の中身を「川の流れを利用した、力と感情の集合体」だと言っていた。そして、信仰心によって具現化する、とも。
だからこそ、もう二度と口にしてはいけない、と圭は言ったのだ。
繰り返しが多ければ多いほど、心からの言葉が強ければ強いほど、確かな力となってしまうそうなのだから。
「そうだな、とりあえず、この人形の残骸を処分してもらおうかな。自分の手で」
圭は総司に向かってそう言うと、縁側から外に出てきた。
「これにて、システムやり替えは完了しました。ご協力いただき、ありがとうございました」
圭はそう言い、ぺこ、と頭を下げた。
ああ、終わったのだ、と私は思った。何かよくわからないうちに、何かすごいことが行われ、とりあえずそれが終わったのだ、と。
「あとは事務手続きがありますので、依頼主である桶田 空美さん、こちらへ。桂木、帰り支度を」
「へいへい。行こうぜ、おっさん」
圭はそう言って、桶田家の中に置いている荷物を取りに行く。私も慌てて追う。
庭では、三枝がはっとしたように「では、私はこれで」と頭を下げて桶田家をあとにし、総司はゆるりと箒を手にして仏間へと向かっていた。
忘れ物がないか確認していると、ざっざっという箒で残骸を掃く音が聞こえる。
それが私には、総司から歌子への別れの言葉のように感じられたのだった。