第九話
三月三十一日。年度末恒例の棚卸に参加した聡司は、薬局長の安田吾郎に声を掛けられた。久しぶりに飲みに行こうと言う。一旦は断ったが安田は強引だった。半ば無理やりに居酒屋に連れて来られ、少々不機嫌に聡司は熱燗の杯に口をつけた。
「お前さあ、最近噂になってるぞ」
聡司よりもっと不機嫌な表情で安田は言った。
「何がだよ」
同い年ということで昔は仲が良かったが、茜を取り合った、いわゆる恋敵となってからは飲みに行くこともなくなった。聡司が結婚してからは一度ぐらい飲んだ記憶はあるが、最近は話をすることも殆どない。
「しらばっくれるな。新留香織だよ。アカさんが亡くなって半年も経ってないのに、別の女に手を出すとは。お前らしくないぞ」
最後は声のトーンを落として、安田はそう言った。
「彼女とは、そんなんじゃ無いんだ」
「お前にその気がなくても向こうは違うぞ。元々お前に気があったみたいだし」
何だよそれ、と顔を上げた聡司に向かい、安田は呆れたように言葉を継いだ。
「やっぱりな。お前はアカさんしか見えてなかったから気付いてないとは思ってた」
溜息を吐いた安田に、聡司は少し申し訳ない気持ちになった。
「彼女とは本当にそんな関係じゃないんだ。実は、茜のことで相談に乗ってもらっている」
「アカさんのことで?」
意味不明という顔をした安田に、聡司は事情を話した。とりとめのない内容が上手く伝わったかどうか不明だが、安田は「うーん」と言ったまま黙ってしまった。
「一昨年の事件について教えてくれないか」
尋ねた聡司に向かい、安田は「ああ」と言った後、勢いをつけるように杯をあけた。
「一昨年の十二月だ。毒薬が入った棚は施錠されていて、鍵は調剤室の真ん中のキーボックスに収められている。皆の目につく場所だし、使用する場合は使用簿に記名押印が必要だから誰でも開けられるわけじゃない。夜も夜勤の職員が一、二名は居るし、誰も居ないときは薬局自体が施錠される。それでも毒薬はなくなった。残量は一グラムほど。試薬として少しだけ残っていた、アコニチンだ」
アコニチン。嫌な響きだった。
「トリカブトと同じ?」
そう尋ねた聡司に向かい、安田は「よく知ってるな」と言った。
「アコニチンはトリカブトの根を煎じて作る。強い催不整脈作用があって、投与すれば心臓発作を引き起こして死に至る。昔は解熱剤や鎮痛剤として使われていたこともあったようだが、今は殆ど使用することはない」
使う事のない薬だから、無くなっていても誰も気づかなかった。と、安田は言った。
「薬が無くなっているのに気付いたのは俺だ。瓶の配置が変わっているような気がして台帳と合わせてみて、やっと紛失に気付いた」
頼んだつまみを持ってきた店員が立ち去るまで、安田は暫く口を閉じた。
「大騒ぎになったよ。警察にも届を出して、院内をくまなく探したけれど出て来なかった。俺は始末書を書く羽目になった」
捜索には聡司も参加したから、事件のことは憶えている。結局は盗難ではなく紛失ということで決着がついた筈だ。誤って捨ててしまったのだろうと思われた。
「それから暫くして、ある出来事があった」
安田は揚げ出し豆腐を口に運び、また杯を干した。
「薬局の隣にある会議室のホワイトボードに、犯人を示唆する内容の落書きが見付かったんだ」
聡司は息を呑んだ。そんな話は初めて聞いた。落書きは、スミレを犯人として名指しするものだったのか。
「証拠は無かったが、桐谷くんは疑われた。事件としては解決した形になっていたから、警察には届けなかった。それが、より一層彼女を追い詰めたのかも知れない。桐谷くんは三月末で自主退職となった」
安田はポケットからスマートフォンを取り出した。
「ホワイトボードの落書きを写真に撮った。お前、これを見てどう思う?」
何だ、これは……。
見せられた文字は溶けたように流れ落ちており、おどろおどろしい呪いの様相を呈していた。
「加湿器の湯気のせいで文字が溶けたんだ。これを見て誰かが声を出して読んだ『毒薬紛失事件の犯人は、スミレ』と」
『菫』と読める漢字もまた溶けており、言われないと判別は不可能だった。大きく引き伸ばして、聡司は画面を見詰めた。書かれた文字は、『あかね』とも読めた。




