第十八話
「お前の耳には届いていないかもしれないが、薬の瓶は出てきたんだ。先日の大掃除で、薬品棚の下から埃まみれの瓶が見付かった。中身もちゃんと残っていたよ」
聡司は口に運びかけていた子芋を取り落とした。薬は盗まれたのではなかったのか。
「正式に届を出して、手順を踏んで廃棄した。事件を蒸し返したくないという理由で、全体への周知は行われなかった。もちろん院長・事務局長あたりは知っているがな」
二人は暫く無言で酒を飲んだ。聡司の杯に酒を注ぎ、安田はきつく目を閉じた。目頭を押さえた後、再び目を開ける。
「白状するよ。ホワイトボードの文字をスミレと読んだのは俺だ」
驚いて顔を上げた聡司から目を逸らすようにして、安田は続けた。
「あの日、鍵を開けるため桐谷くんが先に小会議室に行った。俺と薬局職員たちが入った時、彼女は茫然とホワイトボードの前に立ちすくんでいた。後ろからドクターと看護師──アカさん達が来ていた」
机に向いている筈の安田の眼は、どこか遠くを見ているようだった。探るように、空の杯を手に取る。
「俺は誰かの悪質ないたずらだと思った。薬局内だけで収めようとする気持ちがあったのかもしれない……いや、違うな」
杯を煽った安田は、酒が入っていなかったことに気付いて注ぎ足し、また勢いよく飲み干した。
「俺は、アカさんを守りたかった。……すまんな」
やはり、あの文字は『菫』ではなかったのだ。聡司は言葉もなく、俯いた安田をただ、ぼんやりと眺めた。
「桐谷くんには申し訳ない事をした」
安田がポツリと言った。
※
些細なミステイクがきっかけだった。インシデントにすらならない、状況が違えば笑い話になったであろう程に小さな過ち。引き返そうとすれば幾らでもチャンスはあった。けれど、簡単に修正出来たはずのそれは、時折り差し挟まれた小さな悪意により行き先を誤り、戻る道を見失った。
努力を重ね、築き上げて来た信頼と評価を損なうことは、自身の存在価値をも失くすことに近い。その恐怖は罪悪感との天秤を揺らし、流産に伴う心身の疲弊のなかで、茜は追い詰められていった。
光を認め、助かったのだと思うことで、人の心は弱くなる。ひとときの安寧は、更なる悪意により打ち壊された。幸せな夢から目覚め、自分がまだ暗い穴の底に居るのだと気づいた時、茜の目には、もう破滅に向かう道以外、見えなくなってしまったのだ。
茜か菫のどちらかが、早い時期にすべてを話してくれていれば。一言、相談してくれさえいれば。そう思わないこともない。けれど聡司にそれを責める資格はないのだ。側にいた筈の聡司は茜を助けることはおろか、気付くことすら出来なかった。助けを求めていたに違いない妻のその傍らで、何も知らず手をこまねいていたに過ぎないのだから。
菫は、身を挺して茜の無念を晴らそうとしてくれた。自らが犯罪者になる事をも厭わずに。
俺たちは彼女を守らなければならない。何としても。




