第十六話
桜も散り終えた、四月も終わりのある日だった。見覚えのある薄紫のパーカーを視界の隅に捉えて、聡司は事務室の窓を開けた。何故ここに。そしてどこへ行こうとしているのだろう。あの道の先にあるのは……。
外来患者も殆ど居なくなった夕暮れ。歩いていく小さな姿を目で追い、行く先に検討をつけた聡司は、ちょっと出て来ると言って事務室を後にした。
取り壊しの費用が掛かるため、書類庫と廃棄物倉庫として置いてある小さな古い診療棟。塗装が剝がれた壁を、切れかけた蛍光灯が照らす。『使用禁止』と書かれたプレートが掛かる部屋の前を抜けて旧の待合室に入る直前で、聡司はカウンターの影に身を顰めた。
少し離れた場所に、桐谷菫の小さな後ろ姿があった。その前に立つ人物の姿を見て、聡司はわが目を疑った。
「ホワイトボードの落書きは、あなたの仕業ですね」
菫の言葉に、前に立つ女性は艶やかな笑みを浮かべた。
「何の事かしら」
事務の新留香織だ。彼女が何故ここに。
「インスタのコメントでアカさんを追い詰めたのも、あなたですね」
香織は顎を上げ、菫を見下すように腕を組んだ。
「何の話をしているのか、さっぱり分からないわ」
「じゃあ、何故ここに来たんですか」
菫の言葉に一瞬顔をしかめた香織は、腕組みを解き派手なネイルを施した指をひらひらと振った。
「さあね。勘違いを正してあげようと思ったのかも」
菫の背が震えるのが分かった。
「勘違いじゃありません。思い出したんです。薬品庫の入口からアカさんを呼んだのはあなたでしたね。そして」
少しの沈黙の後、菫は大きく肩を上下させた。
「落書きが見付かった日、午前中に会議室を使ったグループがありました。他の職員から随分遅れて、最後に会議室を出てきた人が鍵を閉めました。顔は見えなかったけど、そのネイルと虎の指輪を、私は確かに見ました」
憎しみにあふれた目で睨み付ける香織に、菫は続けた。
「何故忘れていたのか不思議です。辛い想い出と一緒に記憶の隅に追いやっていたのかもしれません」
古い建物に、ヒールで床を蹴る音が響いた。
「証拠がないわ」
嘲るような笑みを浮かべ、香織が吐き捨てた。
「証拠なんていりません。確信があれば、それでいい。私は真実を今泉さんに話します」
「信じる訳がないわ」
「試してみましょうか」
菫の言葉に、香織はまた嗤った。
「そうねえ。百歩譲って私がしたとしましょう。でも罪にはならないわ。逆に、あなたが話せば、あなたの大切なアカさんの犯罪を彼が知ることになる。それでもいいのかしら?」
菫は暫く黙った後、ポケットに手を入れた。
「そうですか。では話さないことにします」
そのまま香織に近付き、菫はポケットから手を出した。その手に握られた細い注射器を見て、香織は後ずさった。
「本当は、そんな事どうでもいいの」
言いながら菫は、眼の高さで注射針のキャップを外す。
「アコニチンです。一グラムを溶剤に溶かしました。人ひとり殺すには十分すぎる量です。苦しいですよ」
香織が尻餅をつくのが見えた。
「私は、アカさんの仇をとります」
菫は注射器を逆手に持ち、香織に向かって振り上げた。




