第十五話
三月も終わりに近づいたある日の夜、菫は薬局の入口に立っていた。
扉の暗証番号は知っていた。薬の音読みのヤク―89―に、西暦の下二文字と月の二文字。毎月変わるけれど、憶えてしまえば簡単だ。菫はそっと扉をくぐり、薬局の中に入った。部屋の電気は消えており、人の気配はなかった。
調剤室の扉の手前を右に入ると薬品庫がある。施錠された薬品棚の前に立ち、菫は小さな瓶を握りしめた。ここからすべてが始まったのだ。幸せになるはずだったアカさんの人生は、小さなミスによって狂わされた。
「何をしている」
棚の前のカウンターに瓶を置こうとした時、後ろから鋭い声が飛んだ。数回の明滅の後、部屋の灯りが点く。眩さに目がくらみ、瞼を閉じたままで菫は後ろを振り向いた。
腕を掴まれ目を開けると白衣が見えた。視線を上げると、安田薬局長の顔があった。
「桐谷くん」
掴まれた手から落ちた黒い瓶を空中で受け止め、薬局長は痛ましげに菫の顔を見た。
「ごめんなさい。私が盗みました」
咄嗟にそう告げていた。アカさんは悪くない。原因をつくったのは私だ。私がやったのだ。
手首を掴む指に力が入った。
「嘘をつくな!」
怒鳴りつける声は、とても苦し気に聞こえた。
薬局長は手を離し、黒い瓶をカウンターに置いた。
「桐谷くん、すまなかった。もういい。もう、いいんだ」
菫は黙って首を振った。聞きたくない、何も聞きたくない。瞼をきつく閉じ、両手で耳をふさいだ。音と光が無くなった世界で、突然魂が抜けるような感覚が襲った。急いで目を開けた途端、世界が回る。暗くなっていく視界に被さるように、忘れ去っていた光景がよみがえった。
「桐谷くん、どうした。しっかりしろ」
抱き起こそうとする薬局長を突き飛ばし、菫は薬局を飛び出した。もう何も聞こえなかった。夜道を全速力で駆けながら、菫はすべてを終わらせようと思った。




