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第十二話

 一度だけ行ったことがあるアカさんのマンションは立派で、すみれは急に気後れした。私は病院を辞めた人間だ。今さら会いたいなんて言っても迷惑に違いない。ストーカーじゃあるまいし、いきなり押し掛けたらきっと嫌われる。そう思うと電話も出来なかった。マンションの横にある公園の滑り台に上り、アカさんが住んでいる階の窓を見ては滑り降りた。

「スミレちゃん」

 アカさんの声が聞こえた気がして顔を上げると、なつかしい笑顔が見えた。嬉しくて、ただ嬉しくて、菫は駆け出していた。


 アカさんから家政婦として来てくれないかと言われて、菫は舞い上がるような気持だった。提示された給料は多額で、生活していくに十分なものに思えた。家事は慣れている。菫は一生懸命働いた。給料のためではなくアカさんに喜んでもらいたくて、精いっぱい力を尽くした。

 菫は幸せだった。こんな日が、いつまでも続けばいいと思った。

 けれど、運命はある日突然、牙をむいた。

 十月に入った途端、アカさんの精神は不安定になった。ふさぎ込んだかと思うと突然、不自然に明るく振舞い、そして時々ヒステリーを起こした。


 ベッドの上に洗濯物を置いた後、菫は何気なくチェストの上に目をやった。結婚式の写真があった。輝くような、そんな表現がぴったりなアカさんの笑顔。ああ、アカさんだ。そう思った。

 よく見たくて写真に手を伸ばした時だった。

「何してるの!」

 刺すような声がした。振り向くと真っ白な顔をした女性が射貫くような目で菫を見ていた。ショックだった。菫が愛してやまないアカさんの優しい笑顔は、そこには影も形もなかった。

「アカさん」

 そう呼びかけながらも、頭の中には奇妙な疑問すら芽生えた。この人は、いったい誰だろう。私が知っているアカさんは、いったい何処へ消えてしまったのだろう。

 今泉が帰って来て、菫はアカさんの涙を初めて見た。

「ごめんなさいスミレちゃん」

 そう言って泣く目の前の女性をぼんやり見ながら、菫はまた、この人は誰だろう、そう思った。


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