第十一話
先輩から劇薬指定の薬を取ってくるよう言われて、菫は鍵のかかった棚の鍵を開けた。目的の薬がある棚のひとつ上に、毒薬に指定されている薬の瓶が並んでおり、その中に古ぼけた小さな黒い瓶があった。無意識に手を伸ばし、菫は瓶を手に取った。黒字に丸い白枠が描かれた中に『毒』の文字。品名は『アコニチン』。
何故こんな物が。戸惑う菫の後ろから「遅い!」と声が掛かった拍子に、菫は瓶を取り落とした。小さな黒い瓶は棚の隙間を転がり、奥に入って見えなくなってしまった。慌ててしゃがみ込んだ菫の後ろから手が伸び、劇薬の瓶をつかみ取るのが見えた。
「何ボーッとしてるんだ。これだろ。どうした、貧血か?」
大丈夫かと問われて、菫は「すみません」と答えて立ち上がった。
「最近忙しかったからなあ、無理すんなよ」
先輩の職員はさっさと棚の鍵を閉め、菫の腕をつかんで薬品庫から連れ出した。
何故すぐに薬局長に報告しなかったのだろう。叱られるのが怖い、ただそれだけの下らない理由だった。尊敬する薬局長から、母のような罵倒を聞くのが怖かった。
あの時ちゃんと報告しておけば。菫は後に何度も自分を責めることになった。
「アスピリン貰って行くわね。後でオーダー掛けるから」
アカさんが薬品庫に入るのを見て、菫は何となくその姿を追った。今日はまだ挨拶をしていない。「おはようスミレちゃん」と言うアカさんの笑顔が見たかった。
ドアを開けた時、床にしゃがんでいるアカさんの姿が見えた。その手のなかにある小さな瓶を見て、菫は固まった。アカさんは黒い瓶を不思議そうに翳した後、棚の上に置こうとした。
「アカさん、どこですか?」
部屋の外から声がした。
「はーい」
アカさんは慌ててアスピリンをつかみ、黒い瓶と一緒にポケットに入れた。
ホワイトボードの落書きが発見されたとき、人ならぬものからのメッセージだと思った。あれは私のせいだ。だから、あの字を誰かが『スミレ』と読んだ時、それでいいと思った。きっと天罰が下ったのだ、そう感じた。
「もちろん君じゃないって信じてるよ。でもねえ、このままだと院内に不信感が広がるでしょう。雰囲気も悪くなるから。ここは、一身上の都合と言う事で頼むよ」
人事の人は笑いながら、そう言った。
薬局を辞めたと伝えると、母は激怒した。情けない、みっともない。菫を散々罵倒したあと、母はまた自分を憐れんだ。何故私はこんな目にあわされるの? 何も悪いことをしていないのに。お父さんとあんたのせいで、私は不幸なのよ。と。
母が亡くなったのは、五月も半ばの暖かい日だった。
異常死ということで、遺体は検死解剖に回された。死因は毒物を摂取したことによる中毒死。血液からアルカロイドが検出された。ヤマトリカブトの誤食によるものと思われます。警察からはそう言われた。
菫の家の近くには小さな森がある。鳥兜も伶人草もたくさん自生しており、毎年秋になると綺麗な花を咲かせる。菫の好きな彼岸花と同じく毒がある花だが、そう思うと余計に美しく感じられた。
本当に誤食なのだろうか。母は自ら命を絶ったのではないか。毒物を使ったのは、菫を苦しめるためではないのか。いや、もしかしたら菫が母を疎ましく思う気持ちを察知した何か得体のしれないものが手を下したのかもしれない。
──これで満足だろう。
そんな幻聴が聞こえた。
葬儀の手配から始まる一連の慌ただしさが過ぎると、菫の周りは急に静かになった。かろうじて自宅は残ったものの、思ったより少なかった貯金は葬祭関係の費用に消えていった。働かなければ食べてはいけない。アルバイトを掛け持ちし、菫は辛うじて口を糊した。毎日が空しかった。アカさんに会いたい。そう思った。




