第十話
父親が亡くなったのは、菫が生まれて間もない頃だったらしい。もの心着いてからの菫にとっての家族は、いつも不機嫌な顔をしている母親と祖母だけだった。持病のある母の代わりに祖母が菫の面倒を見てくれた時期もあったが、祖母も早くに亡くなり、中学に上がった頃から菫は家事を担うことになった。
「お父さんのせいで私は不幸になったのよ」
それが母の口癖だった。家にいる時は大抵機嫌が悪く、些細なことで菫を罵倒した。暴力こそ振るわれなかったが母の言葉は辛辣で、菫はいつもびくびくしながら毎日を過ごしていた。父は借金を残して死んだわけではなく、暮らしていくには困らなかった筈だが、お嬢様育ちの母には質素な生活が耐えられなかったようだった。
プライドの高い母は、菫が大学に進学することは阻まなかった。奨学金を借り、アルバイトをしながら六年の課程を終えて、薬剤師の資格を得た時にはとても喜んでくれた。就職が決まったとき親戚との電話で「小さな病院なんだけどね」と言いながらも誇らしげな口調であるのを感じて、菫は嬉しかった。
友達と遊ぶことが無かったので、菫はいつも一人だった。気の利いた会話が出来ない菫を、周りの人たちは居ないもののように扱った。菫は人と接するのが怖かった。
病院の薬局に就職しても、それは変わらなかった。自分だけが不幸なように思えて、菫は笑うことが出来なくなっていた。
そんな時「アカさん」に出会った。内科の看護師である彼女の笑顔は、側にいるだけで人を幸せにした。羨ましい、そう思った。自分とは違う世界の人。きっと神様に愛された人なのだと思った。
アカさんが幼い頃に両親を亡くしていることを聞いたのは、知り合って一か月ほど経った頃だった。祖父母の元で育ち、介護を経て祖父母を見送り、今は一人なのだという。菫は驚いた。辛い経験をしてなお、何故そんなに人に優しくできるのか。何故そんなに優しい笑顔でいられるのか。
そう問うた菫に、アカさんは笑って答えた。私だって大して強くない。泣くことも沢山あった。でも自分の機嫌は自分でとるものよ、他人のせいにしちゃいけない。
「好きな歌があってね。重い荷物は背中に背負えば両手が自由になるから、その手で誰かを支えられたらいいね。そんな歌詞。……だから、私は看護師になったの」
それから二人は急激に仲良くなった。アカさんは菫にとって先輩であり姉であり、そして憧れの人となった。結婚式の二次会で見たアカさんは、輝くように美しかった。
「こんな毎日が続くのなら、もう死んじゃいたい」
十一月に入ったばかりの、妙に肌寒い日だった。いつもの母の愚痴。菫はふと、この人は何が不満なのだろうと思った。
つい疑問をつい口に出してしまった菫を、母は憎しみを込めた眼で睨み付けた。
「いつから口答えするようになったの。就職したからって偉そうに、何様のつもり。私が不幸なのはお父さんと、出来の悪い娘のせいよ」
その後は聞くに堪えない罵倒が続き、母は最後にこう言った。
「薬局に毒薬があるでしょう。盗んできなさいよ。そして食事に盛ればいい。私が死ねば満足でしょう」
勝ち誇ったように薄笑いすら浮かべる母の視線を避け、菫は黙って顔を伏せた。




