そんなの気づくわけない
雪だるまが紅茶をおいしそうに飲んでいる。部屋は氷漬けの状態から元に戻ったが、紅茶はすっかり冷めて、たぶん、アイスティーになってしまった。
「あの、ヴァンく……レヴァン様?」
「ヴァンでいい」
「ヴァンくんは、雪の妖精であってる? 人間にもなれたの?」
「正確にはどちらでもない。俺は、半妖だ。母が雪女なんだ」
雪女。
氷の精霊の中でもかなり上級の魔物だ。
300年前、本物の魔王軍と人間との闘いが終わり、なかには種族を超えて結ばれたものもいたと聞いたが、実際にそのハーフが存在するのは珍しい。
というのも、子は出来ても、人間の身体に魔物の魔力が耐えられなかったり、魔物の身体に必要な魔力が足りなかったりして育ちにくく、だいたい小さい時に亡くなってしまうことが多いからだ。
「ミーコが4歳の時に契約した。授業でやっているような、人間が扱いやすいように改造した魔法陣式の召喚契約術ではなく、古い盟約を用いる方法でな」
「ヴァンくんと……一緒に遊んだ記憶しかないけど」
「ふん。……初めて出会った時の話だ」
レヴァン=マーティンも小さい頃、ハーフの例にもれず身体の弱い子だった。
人型を保てず、雪だるまの姿でいればなんとか耐えれていたが、それも成長とともにだんだん苦しくなっていく。
なかの魔力が膨れ上がり、やがて暴走して死ぬ運命。
その日も調子が悪く、雪だるまの姿のままふらふら飛んでいるところを、小さな女の子にむんずと掴まれた。
「かわいい。あなた精霊? 初めて見たわ。名前はなんというの?」
答える気力もなく、無視をした。
いや、そもそも答える名はなかった。
その時のレヴァン=マーティンにはまだ名前がなかったのだ。
半妖の子は死にやすい。
成長してはじめて、本家の人間として認められてからようやく名を貰える。
死ぬ運命だったレヴァン=マーティンには、これからも名はないままだ。
名を持つ者を羨むだけ。
「ないの?じゃあ、ヴァン!」
ヴァンか。
子供にしては悪くないセンスだな、と思った。
「ヴァン、わたしの名前はミーコって言うの!ミーコよ、呼んでみて」
甘い匂いがした。
強く、誘うような香り。
呼ぶつもりもなかったのに、その香りにくらくらしている間ずっと女の子がしつこくせがむものだから、根負けして一度だけ小さく「ミーコ」と呼んだ。
その瞬間、ふっと身体が軽くなった。
今まで感じていた、どろりとした濃い魔力がお腹をぐるぐる這いまわる感覚や、喉元から吐き出したくなるようなだるさがなくなって一瞬自分は死んだとのかと思った。
けれど、生きている。
ヴァンは女の子の手から逃げ出した。
――あの程度の拘束も逃げ出せなかったなんて。
そう思う程軽く力をいれただけで自在に飛べる。
氷だって思いのまま。雪を降らせて、それに紛れて一目散に駆け抜ける。
なんて気持ちのいい……!
家に帰って、母から真名を結ぶ盟約だと言われて愕然とした。
俺はあの小さな女の子と守護獣になる契約をしたらしい。守護獣になったことで、溜まっていた魔力があの少女に流れ込んでいき、俺の身体が軽くなったのだ。
「あなたの魔力はすさまじいから、契約できる人間なんて居ないと諦めていたわ」
人型になってもけろりとしている俺を見て、母は泣いた。
「でも、相手が小さな女の子だというのなら、その子も無事ではすまないでしょうね。その魔力を受け続けたら、きっと倒れていずれは死ぬでしょう。その時はまた、あなたも……」
しかし、母の予想はいい方に裏切られた。
俺が契約した相手の様子を見にいってみれば、倒れたり寝込むなどするどころか、そこら辺を跳ねて遊びまわっている。
俺の姿をみつけると嬉しそうによってきては毎度遊ぼうとせがむ。
雪だるまの姿のままだったから、遊びにくいことこの上なかった。
「……というわけで、俺はミーコの方が人間かあやしいと思っている」
「いえ、普通の人間ですよ……」
答えながら、私は内心汗をだらだらと流した。
4歳の記憶だから朧気ではあるが、雪だるまのヴァン君を随分とあちこち連れまわって遊んだ記憶がある。毎日喜んで来てくれていると思っていたが、私と契約したからだったのか。
今更謝っても仕方ないとは思うが、言わずにはいられない。
「その、ごめんなさい……」
「いや、だが、そのおかげで俺は生きている」
紅茶はすでに空になっていた。
沈黙がおりて、少しだけ気まずい。
ヴァンくんも雪だるまから人間の姿に戻ってしまった。あーあ、可愛かったのに。
「それで、話は終わりか?」
「あ、えっと!もう1つあるの。来月、ダンジョン探索の実習訓練に行くから予定を開けておいて欲しいんですけど……」
「来月の何日だ?」
「3日です」
「あまり時間がないな。ふむ、ミーコ、明日から毎日放課後に来て雑務を手伝え。」
「ま、まいにち……」
「あの紅茶を忘れるなよ」
席を立ち、事務机の方に行くヴァンくんを見ると、なるほど机の上にはかなりの量の書類が積まれている。
「そういえば、他の生徒会の人って」
「そんなものいない。皆凍らせた」
なんで!!
突っ込みたいが、冗談とは思えない雰囲気に、はは……と乾いた笑いを返した。
持ってきたバスケットに水筒や、マットをいれて片付ける。
そのまま帰ろうと扉に向かうと、ドアノブが一瞬で凍った。
「もう遅い。送る」
先に言ってよ!!
ヴァンくんは机の書類を拾い集めると、鞄にまとめていれてからこちらへ向かってくる。
ドアノブの氷が溶けて開くようになった。
無言で手を差し伸べられ、とまどう。
「ええっと……」
「繋がないのか?」
言いながら、ヴァンくんが生徒会室の灯りを消した。
部屋が真っ暗になり、慌ててドアを開けるが、廊下もまた暗い。
非常灯として小さな光虫がまばらに設置してあるだけだ。話し込んでいるうちにすっかり夜になってしまったのだ。
「まっくら……」
呟く私の手を、ひやりと冷たい手が握り込んだ。
「ひっ」
「見えないんだろう? 俺には見える」
ヴァンくんの手だ。
ゆっくりと引っ張られて、付き従うように歩き出す。
こんなに暗い校舎を歩くなんて初めてだ。
時々光虫が動くので、影が急に大きくなったりして怖い。
声には出さなかったが、内心ドキドキしてヴァンくんの手をぎゅっと握りしめる。
「歩きにくい」
「だ、だって怖いんだもの」
ヴァンくんは文句を言いながらも、ちゃんと寮まで送り届けてくれた。