「すずめの戸締まり」について
誰が一区切りをつけるのか。誰に戸締まりする権利があるのか。
表題の作品は、東日本大震災で喪失したものについて、主人公が一区切りをつける様子が描かれた作品と自分は解釈している。クライマックスで描かれるシーンは、多くの人に感動の涙を流させるように計算されて作られ、概ね成功していると思う。自分もクライマックスのキャラクター配置や、結論の持って行き方には感心したし、よく出来ているなと感じた。
ただ、どうしても自分はこの作品に対する否定的な気持ちが拭えない。公開初日に観に行ったし、最終的には合計10回は劇場鑑賞し、先日発売されたブルーレイも購入済みだ。しかし、肯定よりも否定の気持ちが上回ってしまう。映像やストーリーの流れに対する細かい不満点はこれまでの作品にもあったが、本作品について言えば、物語の根底の部分に対する不満が大きいように感じる。
それは何か。映画のタイトルにも関わることだけれど、勝手に戸締まりをしてしまって良いのかという思いである。本作の主人公である「すずめ」は東日本大震災で受けた傷やそこから生じたわだかまりに対して、物語上の旅を通じて一区切りをつけている。後戸から溢れ出るものを封じ、鍵をかけること(=戸締まりをすること)で一歩踏み出している。このような表現は別段珍しいものではないが、本作は具体的に東日本大震災と結びつく描写があることが特筆すべきポイントだと感じる。
この物語で一区切りをつけたのはあくまで「すずめ」という少女であり(その他の登場人物も当てはまるかもしれないが)、万人が同じように震災に一区切りをつけられる訳ではないし、観客一人一人が自分なりにこの物語を受け止めて、当事者として、または当事者以外として震災との向き合い方を考えれば良い、というのが一般的な捉え方だと思う。
しかし、本作が東日本大震災を土台にしているという具体的な描写の存在、そして「すずめ」がその傷を克服するシーンを感動的に描いていることが、ある種の押し付けがましさを生み出してしまっているように感じたのだ。当事者かどうかに関わらず、東日本大震災のことはこの辺りで一旦区切りをつけて、未来に向かって進んでいきましょうという、何とも薄寒いメッセージを私は見出してしまった。もちろん私の勝手な感じ方ではあるのだけれど。
インタビューなんかを確認すると、東日本大震災後、様々な作品を発表する中で、震災と正面から向き合う必要があると考えたようなのだけれど、比喩として彗星や異常気象を用いていた頃の方が好ましかったと思う。何でも正直に、直接的に描写すれば良いとは思えないのだ。抽象的に描いた方が良い題材もある。
以上がテーマについての感じ方であるが、ロードムービーとしてのつまらなさも言及したい。正直に言って、本作は東京に着くまでの一連のシーンが面白くない。ロードムービーの面白さというのは、当初は反発しあっていたキャラクターが、旅の困難を通じてお互いのことを理解し、歩み寄りながらも、ある地点で離れ離れになり、また一緒になろうと奮闘するところにあると私は考える。
この点、本作は「すずめ」と「草太」が反発する様はほとんど描かれない(最初の戸締まりをした直後の軽い描写くらいだ)。まず「草太」が良い人過ぎるし、道中で出会うその他の人々も、「すずめ」にとって都合が良過ぎる人物ばかりだ。愛媛のシーンなんかは毎回睡魔に襲われるくらい盛り上がりがない。ある程度のご都合はしょうがないとしても、もう少し工夫が欲しいところである。蜜柑を拾ったくらいであそこまで歓待するのは理解できない。神戸のおばちゃんは多少の下心がある描写だったので、ギリギリ許容範囲だったけれども。
結果的に、東京に到着して旅を共にするキャラクターが交代したあたりから、ロードムービー的にもグッと面白くなったと感じたので、出発地点のキャラクター配置に問題があったように思える。ロードムービーという筋立てと「草太」のキャラクターの噛み合わなさが問題かなと。マスコット的なキャラとしての、「すずめの椅子」と「ダイジン」のどっちつかず感もあり、全体としてキャラクターを絞った方が良かったのではないかとも思う。
何やかや言いながらも次回作には期待しているのです。終わり