二通の手紙
シュナーベルが目を覚ました時、窓から差し込む陽の光の角度から観て、すでに昼近い時刻だとすぐに分かった。
昨夜、ヨルムドと別れて自室に戻ったのは明け方近く…その後ベッドに入ってもなかなか眠れず、就寝できたのは空が明るくなってから…こんな時間まで眠れたのは、おそらく母が気を利かせて、起こさないよう侍女に命じてくれたからに違いない。
「行かなければ...」
シュナーベルは起き上がり、ベッド脇にある椅子に目をやった。
丁寧に折り畳んだヨルムドのマント…別れ際に返し忘れて持ち帰ってしまったのだ。
「きっと困っているわ…」
手を伸ばしてそっと触れる…もう一度だけその温もりに包まれたかったが、はしたなさに赤面し、すぐに手を引っ込めた。
起きたことを告げると、侍女達がやってきてシュナーベルの髪を漉き始める。慣れた手つきで髪とリボンを絡ませ、それが終わると。二つののドレスを持ち上げて尋ねた。
「今日のお召し物はどちらにいたしましょう?」
シュナーベルは二着を見比べた。実験や作業には華美な装飾が邪魔になる…なるべく質素なものが適当だが、ヨルムドに会うのだから、少しでも美しくなりたい…
「…右のものを。」
「承知しました。」
侍女達はシュナーベルを囲んで着替えを進めた。ごく薄い青みがかったドレス…袖と背にリボンがあしらわれ、胸には細かいギャザー、そして小さなビーズの飾りが付いている。
リボンの数が多すぎるような気がしたが、袖の部分はスッキリしているので、特に支障はなさそうだった。
「お似合いですわ…姫様。」
褒め言葉を残して侍女達が下がると、シュナーベルはすぐに部屋を出て、ゆっくり歩いた。行き交う貴族や騎士と挨拶を交わしながら笑顔を向ける。昨日泣きながら引きこもっていたとは思えないほどに、今日の気持ちは明るく晴れやかだった。
「起きたのね、シュノー」
回廊でクロウディアに出会い、母は娘に手を差し伸べながら穏やかな口調で言った。
「少し前に部屋を見に行ったのだけれど、ぐっすり眠っていたので起こさなかったのよ。」
「ありがとうお母様…すっかり寝坊してしまいました。」
「夜通し起きていたのだから無理もないわ。」
「心配かけてごめんなさい。皆にも迷惑をかけてしまって…反省しています。」
「そうね。あなたがいないと知った侍女たちは、泣きながら夜通し城中を探していたのよ…」
シュナーベルは申し訳なさでいっぱいだった。ヨルムドを疑い、エレネーゼに嫉妬し、部屋に引きこもったあげくに、現実逃避をしてしまったのだ。
「侍女達には午後から休息するように伝えました。私は研究棟に行くので、夕刻までは自由にして良いと。」
「あら…でも、ヨルムドはまだ城内に留まっていてよ。」
「…え?」
「ブラドルが命じたらしいの。昨夜は控えの部屋で宿泊したのだけれど、ついさっきブラッドと城下に出掛けて行ったわ。」
「お兄様と?」
「ええ、帰るのは午後と言っていたから、ほどなく戻って来るでしょう。」
研究棟でヨルムドに会えると思っていたシュナーベルは肩を落とした。彼の指示がないと次の作業の準備はできない。彼が戻るまで、ここで待つしかなさそうだ…
「まずは食事をお摂りなさい。中庭に持って来させましょう。」
クロウディアは控えている女官にシュナーベルの食事の用意と自分用の果実酒を持って来るように命じた。どうやら母は、食事につきあうつもりらしい…
「エレナが目覚めていたら呼んでちょうだい…」
その言葉に、シュナーベルは驚いて母を瞠目した。
夜会翌日のエレネーゼが寝坊をするのは珍しくないが、寝起きの悪い妹の機嫌は決して良いものではない。
…お母様もそのことを知っているはずなのに。
花々が咲く中庭はきちんと手入れがなされており、今も庭師達が黙々と働いていた。クロウディアが満足げに美しい花を見つめる…
少し先では席の用意をしている女官達の姿が見えた。いきなりのことで慌ただしい様子だ…
「…たまには母娘でお喋りしましょう。」
意味ありげにそう言うと、クロウディアはわずかに眉を跳ね上げた。
「はい、お母様。」
シュナーベルは反論せず、素直に頷いてみせた。
…お兄様はヨルムドをどこに連れて行ったのかしら。
やがて、運ばれてきたパンを口にしながらシュナーベルは思った。
…彼を連れて行ってしまうなんて…どんな用事なの?
「やっぱり、マントを返せばよかった…」
つい口走ってしまい、慌てて口を押さえたものの、時すでに遅く、クロウディアが目を丸くして問いかける。
「マント?」
「あ…昨夜ヨルムドから借りたまま、持ち帰ってしまったので…」
「あなたが望んだの?」
「いいえ、庭園でお話をしていた時、彼が肩に掛けてくれたのです。」
「月明かりもない庭園で話を?」
「はい。でも、星がとても綺麗でした。」
シュナーベルの頬がほんのり染まる…その表情を見ただけで、ヨルムドの献身が目に浮かぶようだ…
…足のことで悲しい思いをしてきたシュナーベルが、こんなにも幸せそうな表情を浮かべるなんて…
クロウディアは目を細め、自分のことのように嬉しく思った。
…ルポワドの王女だった頃、私にも切ない恋の経験がある…身分違いであったし、彼は孤高の騎士だった。密かに熱い視線を送ってはいたが、結局、その漆黒の瞳が自分を見つめることは一度もなかった。
王家に生まれた者の宿めは、本来、自由な意思とは縁遠いものだが、例外がないこともない…国王と周囲を納得させる実績さえあれば、身分差を超えることも可能ではあるのだ…
「そういえば、ヨルムドがボルドーに手紙を書いたことは聞いていて?」
「聞きました。私の足の治療のことを相談してくれると…」
「彼の父親は医学薬学にとても詳しいそうね?」
「ヨルムドのお母様も薬学の研究員だったそうです。とても小さい頃に亡くなってしまって、何も憶えていないそうですが…」
「まあ…気の毒に」
「ボルドーは医学が進んでいる国です。足がもっと動かせる様になったら訪れてみたいわ…きっと沢山の知識が得られるのでしょうね。」
「シュノー…」
「この足にも改善の余地があると…そう言ってくれたのです。だから…」
「…だから、一緒に彼の国に行きたいの?」
背後から声をかけられたシュナーベルは飛び上がった。振り返ると、エレネーゼが不機嫌な表情で立っている。束ねることなく美しい髪をふわりと背に流し、裾の萎んだ桜色のドレスを身につけていた。
「ヨルムドが優しいからと言って、それは厚かまし過ぎる願いではなくて?」
「エレナ…」
「いくら熱を上げようとヨルムドの心はなびかない…期待しても無駄よ。」
「それは…どういう意味?」
「彼には『想い人』がいる…という意味。」
「想い人?」
「マンチェスから聞いたの。ヨルムドは主君である姫君に全てを捧げ、心から尽くしていた…その姫君を思うあまり、他の婦人には見向きもしないと…」
クロウディアは無遠慮に告げるエレネーゼに眉を寄せながら、シュナーベルのほうを見つめた。懸念を抱かせないように伏せていた事実であり、相手が誰であるかもクロウディアは知っていたのだ。
「その姫君は…ボルドーに?」
「いいえ、ルポワド国へと嫁ぎ、リュシアン王太子の妃になられたとか…初めから叶わない身分違いの恋だったそうよ。」
「身分違い…」
シュナーベルは目を見開き、持っていたパンを皿に落とした。
エレネーゼの話が真実なら、その姫はマリアナ・バルド・グリスティアス…自分と同じ、王家の姫君だ。
「マリアナ様は複雑な出自をお持ちの方だった…ヨルムドは護衛の騎士として、少年の頃から尽くしていたと聞いているわ。噂は不確かなもの…それは単なる邪推です。」
クロウディアは言った。
「そうかしら…マリアナ様はヨルムドを「ヨルン」と呼んでいた…両親しか使わないような親しげな愛称を、姫君が一介の護衛に使うと思う?」
…ヨルン?
シュナーベルは復唱した。
…昨夜、彼は初めて私のことを「シュノー」と呼んでくれた…お互いに身分に差があるのを承知の上で…。過去のことや悲しい運命なんて気にしない…もう二度と彼の『誠意』を疑いたくないから…
「きっと…マリアナ様はそれほど素敵な方だったのよ…」
シュナーベルは言った。
「私も、そんな自分で在りたいわ。」
姉の言葉に、エレネーゼは目を丸くした。ヨルムドといいシュナーベルといい、なぜこうも寛容なのかまったく理解できない。
「エレナ、もうお終いになさい。」
クロウディアは厳しい口調で嗜めた。
「シュノーには目標ができたのです。足の治療と薬学の勉強。ヨルムドの気持ちがどうあれ、今は彼の協力が必要なのです。」
王女にはそれぞれの未来があり、宿命がある...
クロウディアは目を眇めた。
微笑むシュナーベルとそっぽを向くエレネーゼ…
…心に焼き付けなければ。
こんな光景も、まもなく思い出となってしまうのだから。
シュナーベルを本城まで送り届けた後、控え室で軽く睡眠をとったヨルムドは、王子に随行すべく、朝早く城を離れた。
先を行くブラドルの馬が軽い足取りで架け橋を渡る…
王太子が告げた目的地は城下の町だったはずだが、今は城門を抜け、すでに城壁の外だった。
「午後には戻れる。」
尋ねる前に告げたのは、おそらくシュナーベルへの配慮だったに違いない。朝方はまだ眠っている様子だったが、昼を過ぎれば起きるだろうし、夜まで次の作業を進められる。
架け橋を渡ると、王太子は東へと進路を定めた。なだらかな丘を降り、森林のある方向に向かう。
…行き先はポントワ湖か。
ヨルムドは察した。護衛も連れず城壁外に出るのは危険だと感じたが、ポントワ湖までなら目と鼻の先、森の中にメルトワ騎士が番兵として常駐しているため、安全上に問題はない。
森林を抜けて湖畔に出ると、まもなく目前に美しい光景が広がった。対岸には木々に囲まれた『白鳥の城』の屋根が見える。水面に白鳥の姿はなく、日差しを浴びた水面が、眩しい光に照らされているのみだった。
湖畔の道をさらに先を進むと、栗毛色の立派な雄馬がのんびり草を食んでいた。
ブラドルが傍まで駆け寄り馬を止める…ヨルムドに合図を送り、地上に足を下ろした。
「いるのは馬だけか…」
頭を巡らせながらブラドルがつぶやいた。
ヨルムドも歩み寄りつつ、視線を巡らし、持ち主を探す...
…この馬。
気づいたのは特徴的な馬具。防御に特化した武装には見覚えがある…
「何処にいる…ゴドー!」
ブラドルは声を上げてその名を呼んだ。
王子の目的があの騎士との待ち合わせだった事には驚きを隠せなかったものの、上手く気配を消しているゴドーの居場所を探るべく、ヨルムドは感覚を研ぎ澄ました…
…いる。
岸辺の方向に顔を向けると、葦の陰から人影が現れ、こちらに向かって歩いて来た。以前会った時と同じ革製のヘルムと防具を身につけ、膝丈のマントを靡かせている…
「ゴドー」
ブラドルは自ら彼に歩み寄りながら言った。
「よく来てくれた。私の誘いに応じるか確信はなかったが…安堵したぞ。」
「俺の返答以前に、伝令役が森の中で足止めを喰らって行き詰まっていた…メルトワ騎士が四苦八苦していたぞ…」
ゴドーは王子相手に挨拶もせず、差し出された右手を握って言った。そんな無礼を気にもせず、ブラドルは会話を続ける。
「優れた騎士を選んだつもりだったのだが…そうだったか。」
「いかに優秀な騎士でも、不意打ちや急襲には太刀打ちできない…それだけ奴らの能力が上がっていると言うことだ。」
「…そのようだな。」
「時間がない…詳しい話を聞こう。概要は把握しているが、相当な根回しが必要だ。」
そこまで言うと、ゴドーは王子の後ろに立っているヨルムドに視線を向けた。漆黒の瞳が捉え、口角が上がる…
「また会えたな…月光の騎士。」
ヨルムドは無表情のままで頷き目で促した。
ブラドルとゴドーの関係性はまだ解らないが、シュナーベルがゴドーを見知っている点については、その理由が紐づけられた…
ゴドーはメルトワ王家と深い関わりがあるに違いない。
「そなた達二人がすでに出会っていたとは幸いだ…これから行おうとしている件について説明する手間が省ける。.現状を把握している者であれば、より現実味を感じられるだろう。」
「あの『魔窟』を一度でも通った者なら、誰しもその必要性を理解するさ…きっかけはどうあれ機は熟した。今こそ決着を着ける時だ。」
…決着?
ヨルムドは二人を瞠目した。
王子と騎士の企てが穏やかざる事案であることは確かだが、一体何が始まるというのだろう…
「城の中で話そう。…そなたも付いて参れ、月光。」
ブラドルは命じた。
『白鳥』と称される美しい城に向かう王子の足取りはどこか高揚感を帯び、颯爽としているようにヨルムドには思えた。
「エド…どこにいる!」
突然、リザエナの大声が聞こえた。
廊下で『甥』と話していたエルナドが顔を上げる…方向は元首の部屋、つまりはリザエナの執務室だった。
「…何事だ?」
甥であるパルシャが口を開いた。
「何やら叫んでおられるようだが…」
「うむ…」
体の向きを変え、エルナドが扉へと一歩を踏み出そうとした刹那に、リザエナが先に廊下へと飛び出して来る。左右を見遣ってからエルナドを見つけ「そこにいたか!」と言いつつ足早に走り寄った。
「どうなさいましたか…血相を変えて…」
感情を抑制している『曙光』が問いかけると、リザエナは不満そうに口角を下げた。手に羊皮紙が握られており、焦ったように訴える。
「冷静になっている場合ではないぞ…この手紙を読めば、そなたも同様に驚くはずだ!」
「…手紙?」
「…とんでもないことが書いてある…ヨルムドの手紙と合わせれば、事の重大性がわかるはずだ!」
リザエナがあまりに狼狽しているので、見かねたパルシャが進み出て体を支えた。
「どうか冷静に…血圧が上がりますよ。」
「おお、パルシャ、そなたも一緒か…」
「はい、叔母上。」
「ちょうど良い。そなたにも協力してもらわねばならぬ…二人とも来てくれ…まったく、想定外の事態だ…」
エルナドとパルシャは顔を見合わせた。日頃は冷静なリザエナが、これほどまでに狼狽えるとは…
「とにかく、落ち着くんだ…リズ。」
エルナドはリザエナを部屋へと誘い、パルシャとともに彼女の話に耳を傾け始めた。
つづく