星空と約束
パンとチーズと少しの干し肉...それに皮袋に入った果実酒...
ヨルムドは空腹を満たすため、それらを黙々と食べていた。
シュナーベルも一緒に食べてはいたが、思いのほか食が進まない...ヨルムドを見ているだけで胸がいっぱいになって、空腹など、どこかへ行ってしまっていたのだ。
「パンチェッタがあればよかったのですが...」
ヨルムドは言った。
「干し肉など召し上がったことはないでしょう?」
手を出さない自分を気遣って、ヨルムドが訊いた。
「はい…初めてです。」
干し肉を見つめながら答える…それが理由で眺めていた訳ではなかったが、初めてなのは本当だった。
「我ら騎士の常備食です。非常に硬いですが、召し上がられますか?」
シュナーベルが頷くと、ヨルムドは干し肉を取りあげ、手で小さく千切った。一口大になった物をシュナーベルに差し出す。
手の位置が...とシュナーベルは思った。
口もとまで運ばれたということは、そのまま受け取っていいということだろうか…
口を開けると、そっと口に入れてくれた。とても硬く、いきなり噛むのは難しい...
「口の中で柔らかくしながら食べるのです…果実酒と一緒に流し込むというあんばいです。」
ヨルムドは微笑みながら言った。
「とても硬いけど…美味しいわ。」
果実酒を口に含みつつ、シュナーベルは一生懸命に噛んだ。噛むほどに味が広がり、意外に美味しい...
…せっかく持って来てくれた食事...きちんと食べないと。
ヨルムドの優しさを無駄にはできない。喜びに浮き足立っている場合ではなかった。
…本当に放っておけない姫君だ。
干し肉の硬さに四苦八苦しているシュナーベルを見ながらヨルムドは思う。
控えめで繊細...高い知識を持ちながら、自身を酷く卑下している...足の不具合が原因だとしても、この自信の無さはあまりにも過剰だ。
…原因の一端は、やはり末の王女の発言や行動によるものなのだろうか?
「ああ、やっと飲み込めました。」
シュナーベルは顔を向けて言った。
「なんだか騎士になった気分です。」
「お口に合いましたか?」
「ええ、騎士と一緒に旅をしている感じよ。」
「それは凄い想像力ですね。」
ヨルムドが笑うと、シュナーベルも笑顔になる。頬を染め、薔薇色の唇がわずかに開いた。屈託のなさに愛おしさを感じる…この感覚は、マリアナに初めて会った時と同じだった。
視線を外して林檎を掴んだ。心が乱れる...感情が明け透けになる事だけは避けるべきだ…
携帯しているナイフを取り出し、皮をむいて気持ちを抑えた。
「とても器用だわ…」
ヨルムドを見つめながらシュナーベルが言う。
「騎士は皆、そうなのですか?」
「個人差はありますが、刃物の扱いは長けているかも知れません。」
剥き終えたものを小さく切り分けると、シュナーベルに手渡した。残ったものは自分の口に入れる。メルトワで盛んに生産されている林檎は甘酸っぱさが自慢で、この国の大切な産業の一つだった。
「空腹は満たされましたか?」
シュナーベルが林檎をすべて食べてしまうと、ヨルムドは片付けをしながら改めて尋ねた。
「ええ、もうお腹いっぱいです。」
…胸も。
「それは何よりです。」
手早く片付けを終えると、ヨルムドが右手を差し出した。
「...では、戻りましょう。」
「...え?」
「城までお送りします。」
シュナーベルは失意を感じた。彼の立場ならそう言うのは当然だ。
....もう少し彼の傍にいたい...
「あの...舞踏会のことを...お話しては下さらないの?」
おずおずと尋ねた。
「食事の後で...と言っていたわ。」
上目遣いで銀色の瞳を見つめる...
…そんな顔をしてはいけない。
ヨルムドは心の中で訴えた。
…一介の騎士である自分に、王女である貴方が、期待をかけるべきではないのだ。
「…外にてお話ししましょう。」
マントを手に持ち、ヨルムドはシュナーベルの手を取って、研究室を出た。庭園を照らす灯はなく、暗闇の中なら、表情に留意せずに済む。
二人はゆっくりと庭園を歩いた。シュナーベルの背に手を添え、つまづくことのない様に配慮する。ベンチが置かれている場所まで誘導すると腰を下させ、小さな肩にマントを掛けた。
「私のもので宜しければ…」
「温かい…貴方は大丈夫?」
「問題ありません。」
ヨルムドの温もりに包まれると、シュナーベルの心は身体よりも暖かくなった。暗くて見えないのは幸いで、顔は真っ赤に違いない。
「星がとてもきれい…」
シュナーベルは空を見上げて言った。
「子供の頃から星を見るのが好きでしたが…ここで見上げるのは初めてです。」
「無論です。こんな所で夜明かしなど、するべきではありません。」
「でも…お城の窓から見るよりずっと、視界が広くて素敵よ。」
満天の星々は美しく、本当に素晴らしい眺めだった。新月であることで暗い星々までもが見え、いっそう輝きが増している。
…もし独りぼっちなら、この眺めも悲しいだけだった。彼の放つ光に比べたら、星々の輝きなんて霞んでしまうわ。
「貴方は座らないのですか?」
脇に立っているヨルムドに向かって尋ねた。
「貴方の背は高いから、首が疲れてしまいます。」
「は…」
ヨルムドは即座にその場に跪き、「これで大丈夫でしょうか…」と
言った。
「そんなわけありません…」
シュナーベルが否定した。
「それでは落ち着かないわ。」
「…は。」
「隣に座って下さい。」
手を掴んで引き寄せると、それに従い、ヨルムドが隣に並んだ。
「これで話を聞くことが出来ます。…長い話になっても大丈夫。」
シュナーベルは切り出した。
ヨルムドはシュナーベルに顔を向け、静かな口調で話し始めた。
暗闇の中に、金糸の髪と、銀色の髪だけが、薄ぼんやりと浮かびあがった。
少し前───
マンチェス・ウィザード侯爵の居城に到着したヨルムドは、馬車を降りたエレネーゼの差し出す手を取り、エントランスに向かって歩いていた。
停められた馬車の列は十数台に及んでいたものの、王女の馬車は最前列に停められる。先に到着していた貴族達が王女を見ると次々にお辞儀をし、当然ながら同伴のヨルムドを好奇な視線で見つめた。
「皆が注目しているわ…」
エレネーゼがヨルムドを見上げて言った。
「あなたが誰なのか…きっと首を傾げているのでしょうね。」
遠慮なく体を寄せて来る王女に対し、ヨルムドが無言のまま従う。あたかも自分の“所有物“であることを誇示するかのように、エレネーゼは寄り添い、顎を高く上げていた。
「エレネーゼ様」
エントランスが目前に迫ると、城の中から一人の男が現れ、笑顔でエレネーゼを出迎えた。自ら歩み寄り、頭を垂れる。
「ようこそおいで下さいました…歓迎いたします。」
「お招きありがとう、マンチェス。」
エレネーゼも笑顔で応える。
「今夜も盛況ね…さすがはウィザード侯爵だわ。」
「恐れ入ります。これも姫君のお力添えによるもの…まこと感謝に堪えません。」
腰の低いマンチェス・ウィザードを、ヨルムドは一歩退きつつ瞠目した。年齢は自分よりも少しだけ上だろうか…上背があり、一見すると精悍に見える面貌だが、鳶色の瞳に宿るのものは、得体の知れぬ『翳り』だった。
…この男には闇がある。
ヨルムドは直感的にそう思った。
「…ときに、今夜の同伴者は見かけぬ顔ですが…」
マンチェスの問いに、エレネーゼは「ああ、」と言って振り返る。
「紹介するわ、彼の名はヨルムド。ボルドー国の騎士で、かの有名な『月光の騎士』よ。」
「…月光の騎士…そなたが?」
マンチェスは目を見開き、ヨルムドを凝視した。その驚きの表情ははヨルムドの予想を超えるものではあったが、バルドの和平条約に加担した者としての知名度がそうさせたのだろう。
…遠くメルトワ国にまで波及していたことは、王子や王妃の言葉からも明らかだ。
「ボルドー騎士団「曙光」配下、「月光」と申します。どうかお見知りおきを。」
ヨルムドは跪き、挨拶を述べた。俯いているため顔は見えなかったが、どうやらマンチェスはまだ凝視をしているようだ…
「まあ、マンチェス…怖い顔だわ。」
エレナが言った。
「ヨルムドに同伴を命じたのは私よ…何か不満があって?」
「不満…?」
マンチェスは我に返ってエレナに視線を移した。
「不満など…滅相もありません…いきなりの紹介でありましたので、少し驚いただけです。」
「…そう。それならいいわ。」
エレナはあっさりと納得し、当たり前のように右手を差し出した。
マンチェスはその手を取って指先にキスをした後、そのまま、エレナの横について歩き出す。
ヨルムドも立ち上がり、後を追おうと一歩を踏み出したが、背後に音もなく人影が現れ、小声で告げた。
「殿下の命により、誘導いたします。」
「エレナ様のほうは?」
「気にするな、問題ない…とのこと」
「そうか。」
ヨルムドは頷くと、「従者」の服装をした男について城内へと入った。ウィザード侯爵とエレネーゼの姿はもう見えない…その代わりに、メルトワ騎士が数名、見張り役の番兵と立ち話をしていた。服装から見て近衞の騎士で、ブラドル配下の者達だ。
「この先を右に。」
従者が声を背後から声をかけた。
「突き当たりを左…」
男は誘導を続け、人気のない暗い広場でヨルムドを止めると、顔を上げて辺りを見回した。
「ここには何もない…が、確かにあるはずだ。」
従者の言葉にヨルムドも眉を寄せる…
微かだが、植物特有の匂いがした。おそらく一般人には認識できないほど微かな匂い…この空間のどこからか漂って来る…
「ジキタリス…それに、コルチカム…」
ともに、覚えのある匂いだった。幻覚効果のある植物…薬にも毒にもなる薬草だ。
「嗅ぎ分けまでできるのか…凄いな。」
「従者」は目を丸くして言った。
「…実際に目にしなければ、ここに「在る」ことの証明はできないが、今夜はそれだけで良いと殿下は仰っていた。毒性の強い薬草が複数揃っていると判れば、もうそれだけで十分だ。」
不適な笑みを浮かべる従者に対して、ヨルムドは抑揚なく頷いた。王子の指示は従者=密偵の指示に従いウィザードの城内を探れというものであって、それ以上の詳しい事情はいっさい聞かされていなかったのだ。
「あんたは城に戻って、今すぐこのことを殿下に報告してくれ。私はもう少しこの場を探る…頼んだぞ。」
「密偵」は、手短に話すと、さらに奥へと入って行き、やがて闇の中へと姿を消した。
一人になったヨルムドは静かに踵を返したが、中庭の対岸に漏れる灯りを見遣り、束の間、立ち止まった。
…すぐに戻れと殿下は仰せであったが…
会場にいるであろうエレネーゼの姿が、わずかながら脳裏をよぎった。あらかじめ王子に告げられていた命令は「私の指示に従え」というものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
今後、王女の当て擦りは免れないにせよ、国王の推薦という虚実は許されざる罪…王女といえど、その事への叱責ぐらいは受けるだろう。
…それよりも、問題はシュナーベルのほうだ。
ヨルムドはエントランスに向かって歩き出した。
早足でエントランスを抜け、馬丁と一緒にいるハルトを見つける。…王城に戻ればシュナーベルの様子も聞けるはず…すでに立ち直っていれば良いのだが…
ハルトに跨り、夜道を疾走した。道すがら、何台もの馬車とすれ違った。舞踏会はその後「夜会」へと変わり、明け星を観るまで続けられるのだ…
「エレナが…そんな嘘を?」
シュナーベルは驚き、声を上げた。
「お父様の名前を使うなんて…恐れ多いことだわ。」
「ブラドル殿下が確認したところ、やはり事実ではないとのことでした。陛下の命でないのであれば、私の舞踏会への参加義務はありません。」
「だから…帰ってきたのですね…?」
「はい。随行は役目として果たしました。こちらはブラドル殿下の命によるものです。」
言い訳がましく聞こえているかも知れないと思ったが、それは真実で「虚実」ではなかった。望んで随行した訳ではないと、この場で弁明しなければ、今後の務めに支障をきたすに違いない。
…任務?
ヨルムドは己の内に問いかけた。
…本当に、それだけか?
「あの…ヨルムド?」
「…はい。」
「私…今夜はお城に帰らないと決めていたのです。ここにいれば、明日にはまた貴方に会える…そう思って…」
「姫君…」
「貴方が来てくれて…とても嬉しかった。今日は会えないと諦めていたから…」
「…当然のことです。」
答えたヨルムドの腕に、シュナーベルの肩がそっと触れる…
「私はエレナの様に美しくはないけれど…“知識“のうえでなら、貴方を失望させたりはしません…ですから、見放さないで下さいね。」
…シュナーベル…
ヨルムドは王女を見つめ、声を出さずにその名を呼んだ。
心に宿る微かな灯火…
かつて“我が君“に抱いた、行き場のない感情が蘇る…
…所詮は虚しい夢だ。
「見放すなどあり得ないことです。…それに、姫君のお御足に改善が見られるまで、メルトワに留まるつもりです。」
「…でも、見通しすらたたないのに…」
「我が君主と父に手紙を書きました。返事が戻ってからとはなりますが、おそらくは治療について、知恵を授けてくれるはずです。」
「ヨルムド…」
シュナーベルは安堵した。
ヨルムドはボルドーには戻らない…自分のために留まるという。
それだけで幸せを感じた…マントに顔を埋め肩先の温もりを密かに噛み締めた。
「あの…お願いがあるのですが…」
「…願い?」
「ここにいる時だけは、身分のことは忘れて欲しいのです。お互いに名を呼び合ったほうが、会話が自然だと思います。」
「姫君…」
暗闇だというのに、ヨルムドは眩しさに目を眇めた。
この要望は、かつてマリアナがしたものと同じだが、あの日のマリアナは「幼馴染」として言ったに過ぎない。
…だが、シュナーベルは違う。
ヨルムドは理解していた。“白鳥の王女“は恋をしている…自分を求め、慕っているのだと…
「承りました。」
ヨルムドは応えた。
「これよりは、身分を気遣うことなく、会話をすることにします。宜しいですね…シュナーベル。」
「…是非、“シュノー“と。」
恥ずかしそうに小声で告げるシュナーベル…
躊躇ったものの、ヨルムドは口角を上げて言った。
「…そろそろ帰ろう、シュノー。」
つづく