二人の王女
「その腕はどうした...シュノー」
先に夕食の席に着いていた愛娘の異変に気付いたユリウスが驚いて尋ねた。
シュナーベルの腕に包帯が巻かれており、しかもそれが両腕だったからだ。
「怪我をしたのか...何故そうなった?」
困惑を隠せない父に、シュナーベルはどう答えようかと迷った。ヨルムドを見て動揺し転倒したとは言えない...それでは彼のせいになってしまう...
「庭園で転んだのです。手にカゴをもっていたので…足下が見えなくて...」
「なんと...」
ユリウスは眉根を寄せた。足の不自由なシュナーベルを独りで居させる事には日頃から心配が尽きなかったが、本人の強い希望もあって、今までは誰の手助けも命じずに来たのだ。
「その後はどうした...一人で起き上がることができたのか?」
「あの...ヨルムドに助けて頂いて...」
「ヨルムド?」
「はい。困っていたところを助けて下さったのです。」
そのことは嘘ではないとシュナーベルは思った。ポントワ湖の辺りで起きた奇跡は紛れもない事実で、あの時のほうがよほど危機だったのだから…
「その件については、すでに月光から報告を受けております。」
ブラドルも脇から告げた。
「東の棟を訪れよと命じたのですが、すぐにシュノーの転倒に気付き、手当てを施したとのこと…」
「おお、そうであったか...」
ユリウスは頷いた。
「では、その包帯も月光が?」
「...はい。」
シュナーベルは小声で答えた。
その時の事を思うと顔が熱くなる...ヨルムドの手が優しく触れる度に胸が苦しくなり、傷の痛みなど何処かに吹き飛んでしまっていた。
…ああ、どうか顔が赤くなりませんように。
気づかれないよう俯き、早く話が終わることを願った。心の内を周いに知られ、そのせいでヨルムドに嫌われたくない…
「怪我は腕だけではないのよ、お父様。」
エレネーゼが告げたため、皆の視線が一斉に注がれた。
「お姉様ったら両膝を酷く打ってしまって、それはもう悲惨な状態なの…」
「まあ…本当なの?」
クロウディアも目を丸くして問い掛ける。
シュナーベルはエレネーゼを垣間見ながら困惑した。
膝の怪我はスカートの中に隠れていて、周囲には気付かれていないはず…何故それを知っているの?
「応急処置ですが…」と躊躇いながら手当てをしてくれたヨルムドに迷惑をかけない様に黙っていようと思っていたのに…
「膝の手当てをしたという事は、彼はお姉様の足を診た…という事ね?」
エレネーゼは更に続けた。
「一介の騎士が王女の足に直接触れるなんて、大胆なうえに不埒な行為だわ。」
「なんですって…」
シュナーベルは声を上げた。
「ヨルムドは怪我の治療をして、処置をしてくれただけだわ…それのどこが不埒だと言うの?」
「他に人を呼べば済むことでしょう?なぜ彼が治療をしなければならなかったの?」
シュナーベルは怯み、絶句した。
…確かにそうかもしれない。誰もいない場所だからこそ、彼の立場を慮るべきだった…
「…手当てを申し出てくれたのは、ヨルムドが傷薬を携帯していたためよ...その時は痛くて歩けなかったし、すぐに傷口を洗い流した方が良いと判断したの。」
「それはきっと口実よ。」
「口実…?」
「そう、お姉様に触れるためのね。」
シュナーベルは頭に血が昇るのを感じた。エレネーゼが言わんとしていることはあまりにも下世話で、考えも及ばないない発想だった。
「…ヨルムドはそんな人じゃないわ…勝手な想像で彼の尊厳を傷つけないで。」
目に涙が滲む…声を荒げずに済んだのは、物静かなヨルムドの姿勢に習いたかったため…月の光のように穏やかなヨルムドの印象を、感情的な発言で貶めたくなかったからだ。
シュナーベルの毅然とした態度に、ユリウスもクロウディアも驚きを隠せなかった。弱気なシュナーベルがエレネーゼに対して強気の発言をしたのは、これが初めてだった。
…よくぞ言った。
ブラドルは密かにシュナーベルの勇気を讃えた。
応酬されたエレネーゼは唖然としている…月光が自分に全く関心を示さないうえ、シュナーベルに寄り添う姿勢を見せたため、自尊心を深く傷つけられたに違いない。
…エレナには良い薬だ。
甘やかされて育った末の王女…どうやら、欲しくても手に入らないものがとうとう現れたらしい…
「…もう良い。」
ユリウスが嗜めた。
「月光の行動は、逐次ブラドルの監視下に置かれる。あの者がもし「不誠実」であるなら、即刻、我が国から追放するとしよう。」
「エレナ、ヨルムドを招致したのは技術供与のためです。.陛下なりのお考えあってのこと…邪推をするものではありませんよ。」
両親からの叱咤に、さすがのエレネーゼが口を噤ぐ…
その後は気まずい雰囲気が続き、一言も口を開かないままに食事を済ませると、早々に退席してしまった。
「エレナの言うことを気にする必要はないぞ、シュノー」
自室に戻るシュナーベルに付き添いながらブラドルは言った。
「思ったことをすぐに口にするのはあの子の悪い癖だ…」
「解っているわ…お兄様。」
シュナーベルも小さく頷き微笑んで見せる…エレナが辛辣なのはいつものこと…ブラドルが見せる優しさと同様、それは日常的なことだった。
「月光はお前に微笑みを見せるのか?」
「ええ。」
「私は見たことがないが、どんな感じだ?」
「とても素敵よ。」
「僕よりも?」
ブラドルは悪戯っぽく微笑み、頬を薔薇色に染めているシュナーベルの顔を見遣った。
「そんな...比べられないわ。」
シュナーベルが頬を染めて訴える。
ブラドルは爽やかに笑い「..だろうな。」と言って謝った。
部屋の前まで来ると、ブラドルは妹の頬にキスをした。それは子供の頃からの習慣で、仲の良い二人にとっては当たり前の挨拶だった。
「おやすみ、シュノー」
「おやすみなさい、ブラッド。」
シュナーベルも兄にキスを返した。
扉が閉ざされ、ブラドルも踵を返す。
薄暗い回廊を歩きながらエレナの言葉を思い返した。月光が優秀かつ誠実な騎士であることは間違いないが、この国に滞在する限りは愚かな嫉妬に晒されかねない。エレナを取り巻く一部の者には、いささか邪な感情を持つ輩が付き纏っているのだ。
…月光の背中を守れば、シュノーの身の安全も保証されよう…
ブラドルは気を引き締めた。
来るべき日に備え、準備を整えておかねばならなかった。
窓から吹き込む風が心地良い…
揺れるカーテンを目の端で捉えながら、ヨルムドはペンを走らせていた。
与えられた寝所は東の棟にごく近い場所…明るい時間であれば、シュナーベルの庭園が目視できる距離にある。
若い騎士ばかりが集められたこの場所は静かだった。王子の説明によれば、勉学に長けた少年騎士だけの学舎なのだという。
「ブラドル殿下は賢明なお方だ。」
その概要と説明を受けた後、自室に案内されたヨルムドは改めてそう感じた。自らは何も理解できぬと謙遜しながら、知識の大切さをしっかりと把握し、この国に教育という慣習を根付かせようとしている…いずれメルトワを支える力となる子供達に、惜しみない投資を続けているのだった。
…そう遠くない未来に、彼らはシュナーベルに教えを乞うことになる...書物を読み、理解し、その中から優れた学者が生まれるに違いない。
「私はその一端を担うためにメルトワに呼ばれたと言うわけか...」
ヨルムドは口角を上げた。騎士だからといって戦に駆り出されるより、よほど生産性のある任務だと思う…シュナーベルと過ごす時間は有意義で、今日も一つの成果を上げることができた。一日が短く感じられたのは、きっと知識を共有できる充実感のせいだろう…
燭台の灯火に照らされた机上で、父に手紙を書くことにした。自分の知る限りでは、シュナーベルの足は少しの改善を図ることができそうだ。足らない知識と見解を、エルナドやリザエナに乞う必要があった。
「サー・エストナド」
扉を叩く音と共に、少年の声が聞こえた。
ペンを持つ手を止め、顔を上げる。
「誰だ?」
「ロアン・サーディアスです。」
その名には聞き覚えがあった。すぐに立ち上がって歩み寄り、扉の錠を外した。
扉の外に立っていたロアンの顔が明かりに照らされ浮かび上がる…少年は背の高いヨルムドを見上げ、手に持っていた包みを差し出し
ながら一歩前に進み出た。
「ブラドル殿下の使者が参りました。こちらをお渡しせよと...」
「殿下の?」
ヨルムドは包みを受け取り、その場で中身を確認した。
入っていたのは衣服で、おそらくはメルトワ騎士団のものと思われる隊服だった。
「お言付けがあります。」
ロアンは言った。
「明日より公務の際に身につけよ、とのことです。」
…つまり、メルトワの騎士になれと?
心の中で反問する…限定的とはいえ、メルトワに滞在する間は国王に従わねばならないことは承知だ。その命に対して断れる立場ではなく、ヨルムドはロアンに向かって頷いて見せた。
「ご苦労だった。」
ヨルムドの労いに、ロアンが笑顔を浮かべる。歳はまだ10代の半ばの少年、初めてマリアナに出会った自分と同じ年頃だった。
ロアンが礼儀正しくお辞儀をして立ち去ると、再び静寂が訪れる。
ヨルムドは隊服をベッドの上に置き、再び手紙の続きを書き始めた。治療のためにシュナーベルに直接触れる許しもブラドルから得ており、実質的な診療を明日から始めるつもりだった。
翌朝、
早々に身支度を済ませ、ヨルムドはエントランスへと歩いて行った。廊下で何人もの少年達と行き交い挨拶を交わす…朝の彼らは忙しく、それぞれに一生懸命に働いていた。
「ヨルムド…」
外へ出た途端に呼び声が聞こえる。
ヨルムドは朝日の眩しさに目を眇めつつ、横付けされた荷馬車を見遣った。
「姫君…」
荷馬車の上に座っているシュナーベルに、ヨルムドはゆっくりと歩み寄った。ごく小さな荷馬車を引くのはロバで、とても小柄な体格だ。
「何故ここに?」
ヨルムドは尋ねた。
「迎えに来たのです。あなたは門の鍵を持っていないから。」
「そういえば…」
「それに、荷物を持って欲しくて…」
「荷物?」
「今日の分の食事です。一人分なら運べるけれど、今日からあなたの分も必要ですから…」
シュナーベルは脇に置いてある大きなバスケットに視線を向けながら言った。
「なるほど…」
ヨルムドは微笑みを抑え、丁寧に頭を垂れた。
「お気遣い感謝いたします…姫君。」
「さあ、すぐに行きましょう。これ以上観衆が増えてしまわないうちに。」
その言葉にヨルムドが後ろを振り返る…すると、大勢の少年達が
窓から顔を覗かせていた。皆が二人の様子を観ていたのだ。
「何と言うことだ。」
ヨルムドが気づくと、少年たちは一斉に顔を引っ込めた。慌てた様子で仕事を再開し始める…
シュナーベルは口に手を当てながら笑った。ロバを歩かせ、徒歩のヨルムドとともに出発した。
「見せ物ではないのだが…」
「毎日見ていれば、そのうちに飽きると思います。」
楽しそうに答えるシュナーベル…屈託のない笑顔に、ヨルムドも薄く口角を上げてしまう。
…この姫君は私を緩ませる…気をつけねば。
研究棟への門はわずかな距離だ。敷地の中にあっては抑制から解放される…
「今日は何を教えて下さるの?」
「何と言わず…それはもう山のように。」
「まあ、それは楽しみです。」
程なくして門に着き、鍵を受け取ったヨルムドが開錠した。
草木の香りが広がる…
二人はようやく微笑み合った。絡み合う荊の壁が、その姿を
上手に隠していた。
数日後…
いつもの様にエントランスを出ると、外は深い霧に包まれていた。
視界はわずかで、行く方向を見失いそうになる。
「姫君を城まで迎えに行くべきだな。」
城の城壁もうっすらと見えるのみ…シュナーベルはこの道を歩いて来る…視界があれば問題ないが、この状況では極めて危険だ。
足早に本城まで歩みを進めると、エントランスの前にシュナーベルらしき人影が見えた。
「姫君…」
ヨルムドが声を掛けると、人影が振り向いてこちらを見遣る…
「ヨルムド?」
問いかけながら接近する声に違和感を覚えた。それはシュナーベルではなく、エレネーゼだった。
「ああ、ヨルムド…」
エレネーゼは駆け寄り、ヨルムドの胸に手を置いた。上体を強く押し付け、麗しい表情で顔を上げる…
「何事でしょうか…」
ヨルムドは内心の驚きを隠して抑揚なく尋ねた。この場に王女がいるのは不自然であり、あり得ない偶然だった。
「あなたに会いに行こうと思っていたの…でも、この霧で不安になってしまって…」
「…私に?」
「伝えたいことがあったの…貴方は一日中お姉様のお守りをしてばかりでろくに会えないんだもの。」
「失礼ながら、それには語弊があります。私がシュナーベル様と棟にいるのは研究のためであり、決してお守りではありません。」
「あの薄気味悪い場所で何を研究するの?私なら絶対に近寄りたくない場所だわ…」
…薄気味悪い?
その言葉に不快感を覚える。シュナーベルが世話をしている植物は個性的で美しさには欠けるものが多いが、季節ごとに花も咲くし、色鮮やかな実もつける。この王女は何を観てこんな蔑みを言うのだろうか。
「ご要件は何でしょうか?」
王女の体から僅かに身を引きつつ、ヨルムドは尋ねた。
「今夜の舞踏会に貴方をお誘いするわ。ウィザード侯爵の主催で、国内外の貴族が集まる社交場よ。私が貴方を紹介すれば、国交にきっと役立つと思うの。」
…国交?
ヨルムドは王女を見据えた。舞踏会の誘いにしては中々に尊大な理由だ。
「出席はお父様のご推薦…ぜひ参加せよとの仰せよ。」
「国王陛下の?」
「そう、お父様のご命令。」
ヨルムドは困惑した。それが国王の命であれば断れない。王女が望めば、ダンスの相手をさせられるに違いない…
「来て下さるわね?」
エレネーゼはヨルムドの瞳を覗きながら念を押した。麗しい眼差しを差し向け、自信ありげに微笑んで見せる…
「陛下の意のままに。」
ヨルムドは短く答えた。
その応えに、エレネーゼは満足げに頷いて見せた。
つづく