白鳥の乙女
ルポワドの王都、ポントワの東にその湖はあった。
針葉樹に囲まれた静かな湖畔、湖水の色は深い青であり、水面には多くの白鳥達の姿が見える…
…美しい。
湖畔の道をゆっくり進みながらヨルムドは目を細めた。メルトワを訪れるのは初めてだが、王都からわずかなこの場所で、こんなにも美しい光景を目にしようとは思いも寄らなかった。
「ゴドーの話は真実だったか…」
考えてみれば、彼の言葉を信用してばかりいる…あのバリトンの声と穏やかな口調に、無意識にユーリを重ねていたのかもしれない。
黄昏が近い時刻だったが急ぐ必要はなかった。今夜は城下の町に留まり、適当な宿を見つければ良い...城門を潜るためには、それなりの準備が必要なのだ。
「...ハープ?」
ヨルムドはふと耳をそば立てた。歩みを止めて視線を巡らせる...ゴドーの言葉による先入観ではないかとも思ったが、どうやらそうではなさそうだ。
「...聞こえる。」
神秘的な音色だった。優しい旋律…そして何より清らかだ。
自然に音色の方向に足が向いた。しばしさまよい、その場所を探した。
「...城か?」
見えて来たのは屋根の先端だった。辺りからは一部しか見えないものの、先の尖った青い屋根と、石組みの壁が見える。
音色はその方向から聞こえていた。湖の畔に程近い場所、気配を消して近寄り、木々の間から垣間見る...
...白鳥。
そこには純白の衣をまとった乙女がいた。水面の輝きに照らされた姿は白鳥の様で、月の光を思わせる金糸の髪が風を受けてそよいでいる…
瞼を閉じ、細い指先で弦を弾くその姿を、ヨルムドはしばらくの間、静観した。胸に抱くハープはごく小さなものだが、湖の形状も相まって、音色が広域に響き渡る…まるで現のものではないように神々しく、極めて幻想的だった。
ふと、水面を滑る白鳥達が羽を広げる…
やがて一斉に飛び立ち、空へと飛び立った。
乙女は曲を止め、ハープを膝の上に置くと、湖の方向に視線を向。けた。その横顔は美しく、瞳は湖水のように青かった。
ヨルムドは気配を消しつつ退いた。そのまま進路を変え、立ち去ろうと踵を返して背を向ける…
「…あっ」
背後で叫び声が聞こえた。
…なんだ。
声の主…振り返って乙女を見遣る。なんと、彼女は椅子から地面に落ちていた。ハープが少し遠くに転がっており、弦が一本切れている…
状況は掴めなかったが、乙女は立つことに苦戦している様に見えた。どこかを痛めたのかもしれない。
周囲には誰もおらず、城と思しき建物からも助けが出てくる気配はなかった。彼女は立ち上がれずに地面で途方に暮れている。よほどどこかを強く打ったのだろう。
ヨルムドはすぐに馬を降り、乙女のほうへと歩み寄った。いきなり見知らぬ男に歩み寄られては、きっと恐怖を感じるに違いない。
「大丈夫か!」
離れた場所から声をかける。
乙女は声を上げ、ヨルムドに視線を向けた。紺碧の瞳が自分を捉え、怯んだ様に上体を逸らした。
「私はただの通りすがりだ…危害を加えるつもりはない。」
距離を空けて立ち止まり、両手を上げて静かに告げた。拒絶されれば退くしかないが、放っておくわけにもいかなかった。
「立てないのか?」
ヨルムドは尋ねた。
「どこかを痛めた?」
「いいえ...」
…では何故立たない?
ヨルムドの疑問をよそに、乙女が地面に手をついて立つ「努力」をしている。洞察できたのはなかなか立てないという事実..,何か訳がありそうだ。
「手を貸そう。」
ヨルムドは歩み寄って手を差し伸べた。触れなければ手助けはできない。
「足が悪いのです。転んでしまうと立つのが大変なの。」
乙女は吐露し、深く溜息を吐いた。
「申し訳ありませんが、抱き起こしてはいただけませんか、旅のお方。」
丁寧な口調に、ヨルムドは少し安堵した。見た目通りに、乙女は良家の貴婦人である様だ…
許可を得たため、ヨルムドは乙女を両手で軽く抱き上げた。拍子に、良い香りが鼻腔をくすぐる...
一度立ち上がってしまえば、乙女はきちんと自立した。ヨルムドは手を離し、転がっていたハープを拾い上げて彼女に手渡した。
「ありがとう...助かりました。」
乙女はヨルムドを見上げて言った。
間近に見る乙女は美しく、本当に白鳥の化身のようだった。マリアナがそうであったように、大地の精霊さながら、澄んだ清らかさを感じさせる。
「私はシュナーベルと申します。」
シュナーベルは言った。
「あなたのお名前は?」
「ヨルムド。」
「どこの国の方?メルトワ人ではありませんね?」
「ボルドー人だ...王都に行く途中で立ち寄った。」
「王都に?….では、旅をして来たのですか?」
「いかにも。」
シュナーベルは笑顔を浮かべ、次にチラと湖を見遣った。黄昏の空に星が煌めき始め、水面が幻想的な色に染まっている...もうまもなく夜の帳が下りる時刻だ。
「王都に待っている方が?」
「メルトワに知り合いはいない。これから宿を探すつもりだった。」
「宿?」
「ああ、食事と寝床を見つけないと…」
「ポントワの都なら、きっと見つかるとは思うけれど...」
「それは幸いだ…」
口角を上げ、ヨルムドはシュナーベルから一歩退いた。
「城まで歩けるか?」
「歩けます。」
「良かった。」
ヨルムドは頷き、踵を返した。夜が近い…闇に包まれる前に都に入らねばならない。
「あの…」
シュナーベルが背後から声を掛けた。
「まもなく使用人が参ります。食事と寝室なら用意できます。」
「…用意?」
「この城は私の別邸なのです。陛下からお借りしているものなの。」
「国王に?」
「今夜はここにお泊まり下さい。助けていただいたお礼です。」
ヨルムドは躊躇った。今しがた出会ったばかりの自分を泊めようとするなど、無謀としか言いようがない…まるでかつてのマリアナのようだ。
「お嫌...ですか?」
無言のヨルムドに、シュナーベルは問うた。その表情は悲しげで、伏し目がちに視線を落としている。
…困った,..断り辛いぞ。
ヨルムドは困惑した。断れば泣きそうだ...どうすればいいのだろう。
「お嫌であれば無理にとは申しません…私は足が思う様に動かせないので、あまりお役には立ませんから。」
シュナーベルは失意を隠さず、諦めた様に城に向かって歩き出した。その歩みは極めて遅く、ぎこちなさが痛々しい…
…何を指しての杞憂だ。
ヨルムドは首を捻った。使用人がいるというなら物理的には何の問題もないはずだが…
「シュナーベル」
ヨルムドは呼んだ。
「そう言うなら、好意に甘えても構わないだろうか?」
シュナーベルが振り返る。驚いたように目を見開いた。
「もちろんです。ヨルムド…」
「では、馬を呼んで来る...少し待っていて欲しい。」
ヨルムドは辛抱強く待っていたハルトを呼び寄せ、手綱を握ってシュナーベルのもとに連れて行った。ハルトが鼻面をシュナーベルへと突き出す...どうやら彼女が気に入ったらしい。
「立派な馬ですね。」
「いかにも…」
「名前はあるのですか?」
「ハルトだ。」
「強そうな響きだわ...」
「勇敢という意味だ。」
「まあ…」
二人は会話をしながら歩いた。
シュナーベルの口調は育ちの良さを感じさせる...素性は不明だが、ヨルムドは好意を抱いた。聡明で純粋…ハルトが心を開くほど、“白鳥の乙女“は清らかな心根の持ち主だった。
戻ってきた使用人達が「来客」の存在を知り、夕食の準備を始める。広間に席が設けられ、杯に果実酒が注がれる。爽やかな香りが広がった。
出された食事は鳥肉の煮込み料理。空腹を満たすには十分な量があり、薄切りのパンはとても質が良かった。
村人が食べている物に比べて白さは歴然…食事にしても、シュナーベルの身分の高さを推察させるには余りある。
正面にはすでに食事を終えたシュナーベルが座っていた。
ヨルムドの食事を遮る事なく、今は静かに本を読んでいた。
…マリアナ様もこうして本を読んでおられた。
振り返れば心が沈む...愛していた姫君…手が届かないのは分かっていた。王にでも生まれない限り、決して結ばれることはないのだと...
誰であろうと深く関わらないと肝に命じた。身分違いの恋は身を滅ぼす。…愚かな黒騎士と同じなど、一緒にされては敵わなかった。
皿が全て空になると、使用人が器を下げ、食べやすく切った果実をテーブルに置いた。
…林檎?
浮かんだのはゴドーの顔…見事な乗馬技術を思い出した。
….不思議な男だ。
揺るぎない自信と孤高の魂...理由はないと言ったが、何が彼をそこまで駆り立てるのか...
「林檎はお嫌い?」
シュナーベルは尋ねた。ヨルムドが難しい顔で林檎を見つめていたからだった。
「いや、.嫌いでは...」
我に返り、すぐに否定する。
「ある者を思い出していた。」
「ある者?」
「数日前にマティスの森で出会った騎士だ。その男にポントワ湖を見ろと薦められた。王都に入る前に行けと。」
シュナーベルは瞠目した。僅かに目を見開き、動揺を滲ませる。
「その方は...他に何か言っていましたか?」
「運が良ければ、ハープの音色が聞けるだろう...と」
そのままの言葉を伝え、シュナーベルの憂いに満ちた顔を見つめる…不可解なゴドーの進言もあり、彼とシュナーベルとは、何らかの縁があるのかもしれないとヨルムドは洞察した。
「そうですか...その方がもし私の知っている人なら、元気でいるのですね。」
「健康そのものだった。」
ヨルムドは微笑みながら答えた。事情は解らないものの、今は彼女を励ますべきだと感じたからだった。
「ところで、その本はボルドーのものだな。」
食事を終え、ヨルムドは尋ねた。それは祖国のものであり、表記はすべてボルドー語だ。
「はい。薬草の本です。」
「薬草に興味があるのか?」
「はい、とても。」
「どこかで学んでいるのか?」
「...多少。」
「多少と言っても、ボルドー語が読めなければならないし、ある程度の知識がなければ、とても理解できない内容だと思うが...」
「まあ、そうですね...」
シュナーベルは曖昧な口調で答える。
「それなりに環境には恵まれているのです。父も母も好きなことをして良いと許して下さって...ですから、薬学を学びたいとお願いしました。」
「薬学を?」
「この足を治したいと思ったのがきっかけだったのだけれど、今では学ぶことが楽しいと感じています。」
シュナーベルの表情が明るくなった。足の不具合は不幸に違いないものの、それを凌駕する希望が、シュナーベルの意思をを支えているのだろう。
「私の母も薬学を学んでいた。夢中になり過ぎて身体を壊してしまうほどに学問好きだった。」
「まあ...お母様が?」
「そうだ。」
「..という事は、もしかして貴方も?」
「多少。」
ヨルムドは口角を上げながら答えた。
悪戯っぽい微笑みにシュナーベルの胸が高鳴る...
「なんて素敵な出会い...」
シュナーベルは嬉しそうに微笑むと、すぐに本を開いてヨルムドの方へと差し出した。
「...教えて下さい。どうしても解らない部分があるのです。」
いきなり切り出すシュナーベルに苦笑する。ヨルムドは内容の解説を余儀なくされた。知識欲の高さはマリアナ様と同等。
ヨルムドは付き合う覚悟を決めた。
一宿一飯の恩...今夜は夜更かしする羽目になりそうだった。
一夜が明け、朝を迎える。
ヨルムドが支度を終えてエントランスに向かうと、すでにシュナーベルが待ち構えていた。
「ヨルムド..?」
旅支度から一変、ボルドー騎士団の正装姿で現れたヨルムドに、シュナーベルが驚きの声を上げる。
「その服...ボルドー騎士団の...」
「いかにも...私は「曙光騎士団」配下の騎士だ。」
「では、王都に行く目的は...」
「元首リザエナ陛下の勅命により、メルトワ国王に謁見を賜る。」
シュナーベルは口もとに手を当て驚愕している様子だった。
確かに素性は話さなかったが、それほど驚く事実ではないはずだ。
「世話になった。心から感謝する...シュナーベル。」
ヨルムドはその場で跪き、感謝の意を伝えた。礼儀に従い、右手を差し出した。
「ヨルムド...」
シュナーベルもそれに応じた。見事なまでの銀の髪,,,ヨルムドは限りなく高潔で、誠実な騎士だった。
「楽しい夜でした.,,感謝します。」
顔を上げ、ヨルムドがシュナーベルを見遣る...視線が交わると、お互いに微笑んだ。
ヨルムドはシュナーベルに別れを告げ、湖畔の城を後にした。
ハルトとともに遠ざかるヨルムドの背中を見送る…
複雑な思いを胸に秘め、シュナーベルは深く溜息を吐いた。
つづく