王女と怪物騎士
楽しそうなシュナーベルの声が聞こえる…
オルデラとヴァイデが窓の外で自分の馬の世話をしていて、シュナーベルは彼らと談笑しているのだ。
その明るい雰囲気を横目に、ヨルムドはエルナドとパルシャ、それにキロプスと向き合い、暗たんたる心持ちで彼らの説明に耳を傾けていた。エルナドの見解にパルシャが同意し、その対処法についてキロプスが細かな記述を書き留める…キロプスは痛みの緩和に努めるのが仕事であるため、話を聴きながら持参して来た薬の調合を計算しているのだった。
実際、シュナーベルの治療に対してヨルムドは無力に近かった。
薬学は学んでいるものの、『治療』に関してはパルシャやブラストが専門であるし、「鎮痛」効果の調整に至ってはキロプスやオルデラに一任するしかない…
…私にできることと言えば、痛みに耐えるシュノーを励ますことのみ。
溜め息こそ吐かなかったが、真実、心が折れそうだった。こんな気持ちに陥ったのは、かつてマリアナがバルドに行くと告げた時以来にことだ。
「…なんて顔をしている。」
ヨルムドを見ながらパルシャが言った。
「心情が剥き出しだぞ。」
その指摘に、ヨルムドは我に帰った。表情を動かしたつもりはないが、わずかに眉根を寄せてしまっていたらしい…
「お前がそんな暗い表情では、王女が不審がるではないか。」
「…ああ。」
短く応えるヨルムドだったが、瞳に日頃の勢いはない。
「ふん!」
パルシャは舌打ちし、椅子にもたれかかって腕を組んだ。
「言っておくが、俺とて感情がない訳ではない…患者が痛みを訴えれば哀れみぐらいは感じるし、それは決して楽しいことじゃないんだ。」
「…それは、承知している。」
「ならば毅然としていろ。それが婚約者たるお前の役目だ。」
パルシャの語調は気概に溢れており、迷いはいっさい感じられなかった。この姿勢であれば、エルナドの見解に基づいた治療をきっちりと施すに違いない。
「あまり虐めるなよ、パルシャ。」
キロプスが諌めるように口を挟んだ。
「ヨルムドにとって王女様はかけがえのない存在なんだ…愛する女性が痛みに苦しむ…想像するだけで心が折れるさ。」
「それを抑えるのがお前の役目だろうが…キロプス。」
「もちろん尽力するさ…だが、限界はある。」
キロプスがエルナドに記述書を差し出すと、エルナドは書を受け取って文字に視線を走らせた。内容はほとんどが数式であり「薬草」の割合計算が記されている。
「割合は良い…あとはシュナーベル王女のお体の問題だ。」
エルナドはヨルムドに結果を手渡した。
「王女のご様子ついての判断は、最終的にお前がしなくてはならないぞ。」
「はい、父上。」
ヨルムドは頷いた。言われるまでもなく、シュナーベルのために最善を尽くさねばならない。
「…ところで、ブラストは今夜も王都に留まるのだろうか?」
キロプスが不意に尋ねた。
「もしや、末の王女様のご回復が思わしくないとか?」
「あいつの見立てでは、特に問題ないと言っていた…発熱もすぐに治ったし、明日まで滞在する必要はないだろう。」
パルシャは窓の外を眺めながら言った。いつの間にかシムトも加わって、シュナーベルと談笑している…
「とりあえず、午後から治療を始める…腹を決めておけよ、月光…」
…ことが戦なら、それも可能なのだが…
ヨルムドは再び眉を寄せた。至極冷徹なパルシャに畏怖を感じる…せめてブラストが戻っていれば、パルシャに適切な注意を投げかけてくれるだろうに…
姿を現した人物がいつもの侍医であったことに、エレネーゼは深い失意を感じた。
一昨日の夜から昨日にかけて、ブラスト・オーガナイトが治療にあたり、眠る前までずっと付き添っていたからだった。
「ブラストはどこ?」
エレネーゼは尋ねた。しわがれた手が差し出した薬湯は、昨夜ブラストが飲ませてくれたものと同じ…けれど彼の持つ匙でなければ、口を開ける気持ちにさえなれない...
「自分で飲むわ。」
エレネーゼは素っ気なく告げて、それを一気に口へと流し込んだ。相変わらず苦かったが、初めて口にしたものよりは全然マシで、味を確かめる前に飲み込んでしまった。
「ブラストは今どこにいるの?」
エレネーゼは再び尋ねた。控えの侍女達が皆で顔を見合わせている...彼女たちはどうやら知らないらしい...
…役立たず!
エレネーゼはかろうじて声を出さずに文句を言った。喉の痛みが残っていたし、万が一ブラストに聞かれるのは嫌だったからだ。
「お妃様のおなり!」
扉の外で声が聞こえた。すると、すぐにクラウディアが現れる...王妃はエレネーゼの傍まで歩み寄り、置かれた椅子に座った。
「調子は?」
「もう大丈夫よ...彼のおかげで。」
「...彼?」
「ブラスト・オーガナイトよ。」
「ああ...あのボルドー人...」
クラウディアは微笑んだ。理知的で穏やかな性格の若い医師...ヨルムドもそうだが、ボルドーの騎士は知性に溢れた者ばかりだ。
「お母様は彼が今どこにいるのかご存知?」
「今朝は大広間で食事を摂っていたわね...あなたの容態が安定したから仲間のもとに戻ると...」
「...もう行ってしまったの⁉︎」
エレネーゼは声を上げた。身を乗り出し、母の袖を掴む。
「まだよ...学生が集まって、いろいろ質問しているから、中広間に...」
「ブラスト...」
エレネーゼはいきなり毛布を剥いで起き上がった。驚く母を尻目に侍女たちに顔を向け、「着替えを用意して!」と命じる。
「ちょっと...エレナ!」
クラウディアは狼狽えながら言った。
「いきなり動くなんて無茶だわ...おやめなさい!」
「止めないで、お母様!」
エレネーゼは立ち上がり、侍女達に急ぐよう捲し立てた。その様子があまりにも異様なので、さすがのクラウディアも呆然と娘を見遣るしかない。
乱れた髪を漉き、手早く服装を整えて部屋を飛び出る...病み上がりの身体は少し重かったが、急いで階段を下りて行った。
中広間が目前に迫ると、エレネーゼは一度立ち止まり、優雅な歩調に切り替えた。部屋から声が聞こえている...ブラスト声だ。
少し訛りのあるメルトワ語...それでも言葉は流暢で、学生達に何かを説明している様だった。
開かれた入り口からそっと中を覗き見ると、端正な面貌をした騎士が若者達と向き合っていた。
…なんて素敵なの。
顔が火照り、胸が苦しくなる...「口を開けて...」という彼の声が、頭から離れない...
じっと見つめていると、気づいたブラストと目が合った。青みを帯びた灰色の瞳が自分を捉えると、歓びに心が震えた。
「姫君...」
ブラストは驚いてエレネーゼの近くへと歩み寄った。昨夜の様子からもう大事はないと判断して侍医に任せたのだが、もう出歩いているとはどうした事だろう...
「何故ここに?...起き上がるのはまだ早いですよ。」
ブラストの顔が近づき、手のひらが額に置かれた。その感触にうっとりする...自分の顔が真っ赤になるのがわかった。もしこの場に誰もいなかったら、抱きついてしまったかもしれない...
「顔は赤いですが、熱はない様だ...今朝の薬湯は飲みましたか?」
「ええ、すべて...」
「それは嬉しい...偉いですね。」
優しい笑顔...ボルドーの騎士は感情を抑制しなければならないとヨルムドは言っていたのに、ブラストは違っている...
「私に..何も言わずに行ってしまおうとするなんて酷いわ。」
エレネーゼは訴えた。
「まだ病は治りきっていないのに...」
「申し訳ありません。...ですが、私でなければいけない治療ではなく...」
ブラストは言いかけてから口を噤むんだ。エレネーゼの琥珀色の瞳が、何故か潤んでいたからだった。
「…この場は散会としよう、諸君。」
ブラストは振り返り、学生達に向かって告げた。少年たちは一様に残念そうな表情を浮かべたが、ブラストはそのまま背を向け、エレネーゼを誘ってエントランスから外へと歩み出る。
「不満はご尤もですが、ご無理をしてはいけません...あと、二、三日は安静にしているべきです。少し気晴らしをなされたら、どうかお部屋にお戻りを...」
「嫌よ...」
エレネーゼは言った。
「もう一度眠ったら、その間に行ってしまうのでしょう?」
「職務があります...仲間のもとに行かねばなりませんので...」
困惑しているブラストを見て、エレネーゼは悲しくなった。ブラストは自分のことなど何とも思ってはいない...彼が優しいのは、それが務めだからに過ぎないのだ...
「ポントワ城に行くの?」
「はい。」
「滞在はいつまで?」
「おそらくはひと月ほど...明言はできませんが...」
ひと月と聞いて、エレネーゼは胸を撫で下ろした。それならきっとシュナーベルの結婚の儀で会えるだろう..
「ブラスト...」
「はい、姫君。」
「ダンスは踊れて?」
「ダンス?...それなりには。」
「お姉様の結婚祝賀会にダンスの時間があるの...ほんのささやかなものだけれど...」
「なるほど...」
「その時は...私と踊って下さる?」
ブラストは驚いた様に目を見開いた。
「私と?」
「...他に、誰がいるというの?」
エレネーゼはブラストの瞳を見つめた。
以前、ヨルムドを誘ったのはシュナーベルに勝ちたい一心からだった...もちろん興味や関心はあったけれど、それ以上の感情はとうとう芽生えなかった。
…でも、今は違う。
「姫君...」
ブラストは言った。
「私の名をご存知でしょう?」
「ブラスト...」
「...姓のほうです。」
「オーガナイト?」
「気にはならないのですか?」
エレネーゼは躊躇わず、首を横に振った。
「あ...あなたはバケモノなんかじゃないわ...ただの名前でしょう?」
「そうなのですが...」
ブラストの瞳に翳りが見える...憂うような哀しげな表情…
「お願い...」
意を決して、エレネーゼは身を寄せた。
「断らないで...」
王女が胸に顔を埋めたので、ブラストは躊躇いながらそっと背に腕を回した。若く美しいメルトワの王女...正直で可愛らしい姫君だ。
「...断るなど」
ブラストは否定した。
「我が身に余る光栄です。.」
「...本当?」
「誓いをお立てしましょうか?」
エレネーゼは首を横に振った。誓いなどなくとも、彼を信じていたかった。
「きっとよ...」
「仰せのままに...」
“怪物騎士” が穏やかに微笑む…
…もしブラストが怪物であっても構わない。
逞しい腕と広い胸…この温もりがあれば、もう何も要らない…
…これが恋...なのね。
「治療をやめても構わないんだぞ...」
肩を震わせ泣いているシュナーベルを抱きしめながらヨルムドは言った。
「私が、シュノーの足となろう...だから君はそのままでもいいんだ。」
慰めを言うより、励ますべきなのは分かっていた。激痛に耐え、悲鳴を上げながら治療に挑むシュナーベルに、「明日も頑張ろう」と言わねばならない立場だということも...
小さな背中を撫でつつ、シュナーベルが泣き止み落ち着くのを待つしかなかった。どんなに心を寄せようと、痛みを共有することはできないのだ。
「すごく痛い...でも、いつかハルトに乗れるなら...我慢するわ。」
嗚咽しながらシュナーベルが言った。
「ハルトと...約束したの。」
「シュノー...」
顔を上げたシュナーベルの額にキスをする。勇敢な王女は、どうやら覚悟を決めているらしい。
「婚儀の日まではパルシャが治療を続ける...その後は私が引き継ぐことになるが、段々に改善が見られるはずだ。」
「…あなたを…信じているわ。」
「よし。じゃあ、少し休みなさい。」
疲れ果てたシュナーベルはベッドに横になり、そのまますぐに眠ってしまった。
陽はまだ高く、日差しを浴びたシュナーベルの頬に涙が光る...
「ゆっくりおやすみ、シュノー。」
ヨルムドは寝室を出て、騎士のいる広間に向かった。
…父上と話をせねば。
結婚の儀は10日後...今は平穏な日々だが、挙式の後には『大事』が控えている。
…シュノーに事実は伝えられない。告げるのは王子ご自身のお役目だ。
結婚については寛容に見えるブラドル...しかし、マティスに巣食う山賊は強力で、任務の危険性は極めて高い...
…婚約を急ぎ、この城での滞在を許したのも、結婚後すぐに私を出撃させんがための計略…
「本当に食えないお方だ...」
ヨルムドはほくそ笑んだ。
シュノーのために生き残らなければならない。結婚したばかりの新妻を、さっそく寡婦にするわけにはいかなかった。
広間では騎士が集まり、エルナドが薬草について説明している最中だった。
いつの間にかブラストの姿もあり、彼はヨルムドに気づくと、軽く手を挙げて挨拶をする。
「末の姫君は?」
ヨルムドは隣に座り、小声で訊ねた。
「だいぶ回復なされた...もう大丈夫だ。」
笑顔こそ見せなかったが、ブラストは穏やかな口調で答えた。相変わらず人当たりが柔らかい。名医に当たったエレネーゼは本当に運が良かった。
「シュナーベル様は落ち着いたか?」
話を中断してエルナドが尋ねた。皆もいっせいに視線を向ける。
「はい、少し休まれるとのこと...問題ありません。」
「うむ、お気の毒ではあるが、耐えて頂かねばならない...触診による物理療法以外に効果的な治療はないのだから。」
「他にもありますよ、エストナド先生。」
ヴァイデが言った。
「それは?」
「ヨルムドの献身です...王女様に希望を持たせ続けること...それが一番の治療でしょう。」
「治癒」の研究者であるヴァイデは、流麗な面差しをヨルムドに向けながら言った。魅力的なこの眼差しと口調で、彼は多くの患者を救っている。「春光の騎士」の異名は、彼の魔法の様な『治癒力』に由来するものなのだ。
「確かに、精神が健全でなければ、いかなる良薬も効き目が薄いという見解がある...私と君は「毒薬」の生成が専門だから、治癒に関して行えるのは「心の支え」くらいだ。」
「違いない。」
オルデラの言葉に、ヨルムドは頷いた。
自分の知識だけではシュナーベルの治療は不可能だった。この場にいる全員が知恵を出し合い、意見を交わしてこそ、先に進むことができるのだ。
「今日は初日であったし、探り程度の触診だった...明日はもう少し具体的な方法を試してみようと思うが、どうだ?」
パルシャが冷徹な面持ちで口を開く...シュナーベルの絶叫を耳にしながら眉ひとつ動かさなかったこの冷血漢に、ヨルムドは更なる畏怖を感じざるを得なかった。
「ヨルムドにそれを許可させるのは酷ではないのか、パルシャ。」
ブラストが横槍を入れる。
「ヨルムド、明日は私も参加させてもらう...できるだけ無理の無いよう配慮しよう。」
「二人ともすまない,,,よろしく頼む。」
「よろしい。」
ヨルムドの様子に安堵し、エルナドは深く頷いた。
「...では、これよりは戦の話をしよう...ブラドル殿下より、王女の耳には決して入れてはならないと仰せつかった…今が絶好の機会だ。見張を頼むぞ、シムト。」
「...お任せ下さい。」
シムトは扉の前に立ち、瞳を輝かせた。
医師見習いとはいえ、シムト・バーンシュタインは優れた剣の使い手であり、実戦経験もある「準騎士」。戦に参戦できるのが楽しみ
である様だ。
「この件については、私が指揮をとります。」
ヨルムドは立ち上がり、父に同意を求めた。掃討戦においてはヨルムドが指揮官となる。ゴドーが帰還すれば、ともに力を合わせることになるだろう。
「よかろう。」
エルナドは応えた。
「ボルドー騎士団『曙光』は、メルトワ軍との共闘に同意する。」
つづく




