湖畔の誓い
穏やかな日々が過ぎる…
メルトワに来てひと月が経ち、ようやく本格的な技術供与に取り掛かろうとしていた。
薬学に関するボルドーの書を読み解き、シュナーベルに詳しい説明をしながら理解を深めていく...
言語の違いによる微細な誤訳が原因で、時には互いに首を捻る場面もあったものの、シュナーベルの飲み込みの良さが幸いし、想像以上に学習の進みは早かった。植樹された薬草の種類の多さも助けの一つで、生成や調合など、理屈だけでなく、実践的な供与ができるのも、シュナーベルの地道な努力の成果だった。
知れば知るほど王女の知性の高さに驚きと感銘を受ける…
シュナーベル王女は出会うべくして出会った、最高の「相手」であることは間違いなかった。
…それにしても。
ヨルムドは手にしていた羽ペンを机の上に置き、深くため息を吐いた。
三日前に言い渡されたブラドルからの「命令」が頭から離れない...感情の抑制という厳しい縛りの中にあってさえ、王子の衝撃的な発言は動揺を招くものだったからだ。
「そなたには責任をとってもらう。」
ゴドー以外は誰もいない中広間で、ブラドルは告げた。
「シュノーはそなたとこの城で一夜を過ごした..この事実に相違ないな?」
「...は。」
「隠さずとも良い。シュノーはその事実を伏せているが、詳しい報告は全て受けている。妹が転倒していたところを助け、その礼としてシュナーベルが一夜の宿を与えた…とな。」
「相違ありません。」
ヨルムドは余計な弁明はせず、事実を素直に認めた。その件についてはさほど驚く事ではなく、王女が口止めしたとしても、召使いが告げるのは当然のことだった。
「うむ、認めたな。ならば命令は簡単だ。」
ブラドルは更に口角を上げて言った。
「昨夜の事件で、シュノーとそなたの間柄が城中の噂になった。連れ立って帰って来たことが憶測を呼び、有らぬ疑いをかけられているのだ。」
…さもあろう。
ヨルムドは思った。誰の介入も出来ない深夜の研究棟に二人きりでいては「邪推」されても仕方がない…ブラドルの許可を得ての行動だったとしても、噂になるのは無理からぬことだった。
「そこでだ…月光。」
王子はヨルムドを見据えた。琥珀色の瞳に微かな光が宿る。
「シュナーベルとの結婚を申しつける。妹を妻とし、今後メルトワ王家に忠誠を捧げよ。」
…は?
ヨルムドは耳を疑った。
…今、何と言った?
「...とんだ謀略だ。」
茫然となって動かないヨルムドの代わりにゴドーが声を上げる。堪らず吹き出し、笑い出した。
「あまりに酷い…無茶苦茶だ。」
「謀略ではない...必然的な成り行きだ。」
ブラドルが大真面目に言う。
「シュノーがそれを望んでいるのは明らかだ...これ以上あの子に悪い評判が立たぬうちに、婚約を告知すべきであろう。」
「それを謀略と呼ぶんだ..」
ゴドーはさも愉快そうに笑っている…話題が話題だけに、抑え気味ではあったが...
…結婚?
ヨルムドは困惑した。
…いきなりか。
「僕はそなたの身辺について、以前から「誠実」であるとの報告を受けていた。マリアナ姫をめぐるネスバージとバルドの確執に深く関わり、多大なる功績を上げたことは誉れ高い。主君に対する忠誠心と穢れなき魂は称賛して余りあるもの...シュノーに対する誠実性と併せても、実に期待通りの者だと確信した。」
…私を呼んだのは...その為だったのか!
「お褒めの言葉...光栄の至り...」
ヨルムドは抑揚なく応えた。適当な言葉が見つからない...いきなり王女と結婚しろと命じられて、他にどう答えれば良いのだろう、…
「とはいえ、婚姻については一長一短とはいかない...そなたには地位がなく、王女との身分に差があり過ぎる...異国人であることも障壁の一つだ。何もせずには周囲を納得させることは出来ない...先へと駒を進めるには、それなりの武勲が必要となる...」
そこまで告げると、ブラドルは立ち上がって机上の剣を掴んだ。
「そこに直れ、月光。」
「はっ」
命令に従い、ヨルムドがその場に跪くと、肩の上に長剣が置かれた。
「メルトワ王子、ブラドル・アズ・メルトワが命じる。我が妹にして第五王女シュナーベル・メルトワを妻とし、婚姻を結べ。命令は絶対のものであり、誓いの反故は許されない。」
…何ということだ。
ヨルムドは心の中で訴えた。一国の王子の命令であれば従わざるを得ないが、これはあまりに唐突だ...
「余りある光栄...」
かろうじて応えたものの、脳裏に浮かんだのはシュナーベルの顔だった。
…すべてが王子の謀だと知って、果たして王女は喜ぶのだろうか…
「...結婚の儀は30日後だ。」
ブラドルは穏やかに告げた。
「その後すぐにマティスの森の掃討作戦を開始する...ゴドーとともに指揮をとれ。成功した暁には、子爵の地位を授けよう。」
…それが「今」である理由か?
ヨルムドはすべてを理解した。
「…確かに、覚悟を決めるべきかもしれん。」
「もう少しだろうか...」
ヨルムドが身を屈めて一点を見つめる。
「あと少しだと思います。」
シュナーベルも顔を寄せながら言った。
庭園からとってきた檸檬の葉を与えて生育していた蝶の幼虫が蛹化し、数日前にサナギになった。
薄布で囲った一画の中を覗きながら様子を伺う...毎日観察を続けていて、それが朝の日課になっていた。
「...今まで何度か試したのだけれど、一度も羽化させられなかった...でも、今度は大丈夫そうだわ。」
「与えていた葉の栄養分と室温に少し問題があったのかもしれないな..」
「きっとそう...可哀想なことをしてしまったわ...外にいれば、空へ飛んでいけたのに...」
「実験には失敗がつきものだ...気にすることはない。」
ヨルムドの優しい言葉に、シュナーベルは微笑んだ。いつものことながらその微笑みは素敵で「自分だけ」に見せてくれることが嬉しい...
「羽化の瞬間が見たいわ...」
「変化の兆しを見落とさないようにしよう…」
二人は姿勢を戻して顔を見合わせた。
さして珍しい場面ではなかったが、以前に比べてヨルムドの視線が熱いとシュナーベルは感じる...
…きっと私が意識し過ぎているせいね。
シュナーベルはそう結論づけていた。
ヨルムドは常に冷静で変わらない...胸がときめいているのは自分だけで、ゆえにそう見えてしまうのだと…
「...風が強くなって来たわ。」
シュナーベルはヨルムドから視線を外して窓を見やった。木々がざわめいている...天候が荒れる予兆だ。
「この季節は時々荒天になることがあるの...扉を閉めたほうが良さそうだわ。」
歩き出すシュナーベルの横についてヨルムドも歩を進める。廊下に出て数ヶ所ある扉を閉じ、最後にエントランスの外で空を見上げた。
「やはり雲行きが怪しいな...」
「そうね...この大扉も閉じましょう。」
シュナーベルは一度外へ出て、左の片扉に手をかけた。頑丈な扉は重く、力を入れて押し動かさなくてはならない。
右側を難なく制したヨルムドがシュナーベルに近寄る…すると、遠方から唸りに似た轟音が聞こえた。
「風...?」
ヨルムドが眉をひそめる。
「ああ…もう間に合わな..」
シュナーベルが声を上げた。ヨルムドも危険を察知し、咄嗟にシュナーベルを抱き寄せる。
直後、凄まじい突風が二人を襲った。姿勢を保てないほどの強風が吹き荒れ、辺りの物を次々に吹き飛ばしている...
悲鳴を上げるシュナーベルの身体に覆い被さる姿勢で、ヨルムドはその身を守った。ちぎれた葉や物が激しく背にぶつかっていたが、シュナーベルに当たらないようさらに深く抱きしめる...
…治ってきたか?
しばらく耐え凌いでいるうちに、風が徐々に弱まりはじめた。再び静寂が訪れ、空から雨粒が落ちて来る。
「今度は雨か....」
ヨルムドは顔を上げて言った。見上げた空は暗く、雲が低く立ち込めている…
「大丈夫か…シュノー?」
腕の中にいるシュナーベルを見遣る。
「ええ、ヨルン。」
「...ヨルン?」
「あなたがシュノーと呼んでくれるのに呼び捨ては何だか不自然だと思って...そう呼んでも?」
シュナーベルは頬を染めながら言った。その呼び名はかつてマリアナが使っていた愛称で、とても懐かしい響きだった。
「もちろんだ、シュノー」
ヨルムドが応えると、シュナーベルも嬉しそうに頷いた。
「髪に葉っぱがたくさんついてる...髪がとても乱れているわ...」
「貴女もだ。」
お互い絡んだ葉を取り払う...顔が近くにあり...今にも触れそうだった。
「ヨルン...」
シュナーベルは言った。
「あなたのことを...好きになってもいい?」
身体に衝撃が走る…
シュナーベルの瞳に光が宿っている...まるで夜空の星々の様に、美しい輝きに満ちていた。
…そんな目で見つめてはいけない。
告げようとしたが、言葉にはできなかった...緩めなければならないと思いながら、腕すらも解けない有様だった。
「私の許可など...必要とは思えないな。」
ヨルムドは言った。
「…それはなぜ?」
シュナーベルが問いかける。
「私も、シュノーが好きだからだ。」
ヨルムドの告白に、シュナーベルは涙を浮かべた。
足の不自由な「見栄えの悪い」王女...そんな自分を、彼は好きだと言ってくれる...
「…愛しているわ。.」
シュナーベルは告げ、ヨルムドの胸に顔を埋めた。
「あなたが好き…この世界の誰よりも…」
「私もだ...」
ヨルムドも言い、シュナーベルを抱きしめた。
雨が激しく降り注ぐ…
二人は手を繋ぎ、大扉をしっかりと閉ざした。
「シュナーベル様、クロウディア様がお呼びです。」
自室にいたシュナーベルに、王妃付きの侍女が訪れて言った。
「お母様が?」
「はい、すぐにいらして頂きたいと。」
「何かしら...」
今朝はヨルムドの迎えを待っていて、もうすっかり身支度を終えていたのだが、母の呼び出しでは断るわけにはいかない。
「すぐに行くわ。」
シュナーベルは伝え、すぐに踵を返して部屋を出た。クロウディアの部屋は廊下の並び、最も奥の場所にある。
「お母様...」
部屋に入ると、母が満面の笑顔を浮かべて出迎えた。青い瞳を輝かせ、いかにも嬉しそうな様子だ。
「こちらにいらっしゃい。さあ、これを見て。」
誘われるまま奥の部屋へ入る…目に入ったのは純白の衣装で、真珠が随所に散りばめられた、眩しいほど美しいドレスだった。
「なんて素敵なの…こんなに綺麗なドレスは見たことがないわ。」
シュナーベルはうっとりしながらドレスに触れた。肩には鳥の飾り羽根...きっと白鳥の羽に違いない...
「…誰が着るのですか?もしかして、エレナ?」
振り返った王女が尋ねる…何も知らない娘に、クロウディアが静かに告げた。
「いいえ、貴女のドレスよ、シュナーベル。」
「…え?」
「これは婚儀用のもの…あなたが着る婚礼衣装。」
母の告知に、シュナーベルは呆然となった。
「婚礼...衣装?」
「ええ。」
「私が…着るのですか?」
「もちろんです。」
「でもそれは...誰かと結婚するという意味だわ…」
「ええ、そうね。」
「...そんな…私、何も聞いていない。」
シュナーベルは訴えた。
「いきなりなんて酷いわ…なぜ早く教えてくださらなかったの?」
「いきなりでは無いわ…もうずっと以前から決めていたことなの。陛下も私も、あなたの幸せだけを願ってきた…だから、来るべき日のために準備を進めていたのよ。」
「…ずっと以前から?」
シュナーベルは涙を浮かべた。知らなかったのは自分だけ?父も母も...そしてブラドルでさえも、そのことを隠していた?
…ヨルムドに会う以前なら諦められたかもしれない...
それを思うと涙が溢れた…やっと心が通じ合えたいうのに、なんて残酷な仕打ちだろう。
「シュノー、聞きなさい。」
クロウディアは、涙を流すシュナーベルに歩み寄りながら言った。
「勘違いをしてはいけないわ。この結婚はあなたを幸せにするものであって、そんな涙は不釣り合い...だって誰もが羨む様な幸運をつかむことができたのだから...」
「…幸福?結婚することが?」
「そうよ…私もあなたが羨ましい...初めての恋を実らせられるなんて、王女にとっては夢のような話だもの。」
…初めての恋?
「お母様…?」
シュナーベルは尋ねた。
「結婚の相手は…誰?」
クロウディアが口角を上げ、シュナーベルの肩越しに視線を移す…ほっそりとした指先が入口を指差し「彼」と告げた。
振り返ったシュナーベルの目に「月光の騎士」の姿が映る…
ブラドルの後ろに控えており、銀の瞳で自分を見つめていた。
「ヨルン…」
シュナーベルは呟き、口もとに手を当てた。告げられた真実が信じられず、何も言うことができない。
「婚約おめでとう、シュノー」
微笑みながらブラドルが言った。
「僕の選んだ相手は気に入ってくれたかな?」
「ブラッド…」
「君はずっとそれを切望していた…そうだろう?」
悪戯っぽい微笑み…目論みの全てが、優しい兄の配慮だったということを、シュナーベルは初めて知った。
「はい、お兄様...」
シュナーベルは頷いた。
「お心遣いに、感謝いたします…」
その答えに満足し、王子が控えているヨルムドに道を譲った。
ヨルムドが歩き出すと、シュナーベルも歩み寄り、二人は強く抱き合った。
湖の水面が美しい...
湖畔の周囲は初夏を迎え、緑が色濃く鮮やかだった。
白鳥は北へと飛び立ち、すでにもう姿は見えないが、夏の水鳥がそこかしこで泳いでいる...
「婚約の祝いとして、ポントワの城をシュナーベルに与え、婚儀までの滞在を許す。」
国王ユリウスの宣言をもって、ヨルムドはシュナーベルの正式な婚約者となった。
「ポントワに滞在させるのは、シュノーの身を保護するためだ。」
そのブラドルの命令が、現状のヨルムドをこの場所に「拘束」している...
今日になってボルドーからの返答が届き、今は湖畔に出て、その手紙を読んでいるところだった。
「父上が来るのか...」
ヨルムドは呟いた。
一枚にはメルトワを訪れる旨が、もう一枚にはシュナーベルの足について、簡単な見解が書き込まれている。
「マティスにゴドーはいない…騎士団を連れて来るのであれば問題ないが、それでも危険がないわけでないな...」
山賊の『掃討作戦』は、密かに始まっている。ゴドーはルポワドで『兵の手配』をすると吐露していたし、ブラドルも奔走しているようだ。
「とにかく、ボルドーからの指示が届けば、具体的な治療が行えるだろう..」
おそらく到着はまもなく…久しぶりに父の顔が見られそうだ。
「…ヨルン?」
背後から声が聞こえる。
いつのまにかシュナーベルがいて、肩越しに顔を覗かせていた。
「お父様のお手紙?」
「そうだよ。」
「こちらに来られるの?」
「そのようだ。」
「じゃあ、お会いできるのね?」
「ああ、まもなくね…」
ヨルムドは頷きながらシュナーベルに向き合った。すると、空かさずシュナーベルが胸に飛び込んで来る。
「待ち遠しいわ…結婚の儀にもご出席頂けるかしら…」
「それはわからないな…」
ヨルムドは口角を上げて言った。
「リザエナ様が寂しがる。」
「そうなの…?」
シュナーベルは笑った。
愛らしい笑顔に心が和む…このままでは骨抜きと父に揶揄されそうだ…
「ねえ、ヨルン…もう少し足が動く様になったら、私をハルトに乗せてくれる?」
「ハルトに?」
「ハルトに乗って、ボルドーに連れて行って。」
「シュノー…」
「…駄目?」
シュナーベルの顔が僅かに近づく…つぶらな瞳が潤んでいた。
…馬に乗るにはそれなりの訓練が必要だ…
約束を守れる保証はない。だが…
「わかった…誓おう。」
ヨルムドは観念して言った。
「婚約者」の華奢な身体を抱きしめ、そっと唇を重ね合わせた。
つづく




