マティスの守人
既刊 ペリエの黒騎士に登場した、月光の騎士のその後を描く物語。
月光の騎士は、ポントワの湖で白鳥姫に出会う。
まったく...大概にして欲しいものだ。
向かってくる盗賊を打ち倒しながら、ヨルムドは何度となく舌打ちした。
ボルドーとメルトワの国境、マティスの森は、追い剥ぎや盗賊の多いことで知られる巣窟ではあるが、こうも毎日現れるとさすがに厄介だと感じる...
…“虫除け“の配合をもう少し強めにするべきかもしれん。
考えながらダガーを右斜めから下へと振り下ろす…後方から襲って来た敵の襟首を片腕で掴み、その頭部を殴打した。
…盗人如きに刃を向けるまでもない。
柄の先端で頭を強打された男は卒倒し、呻きながら地面に突っ伏した。絶命するほどではないが、気絶から回復するにはかなりの時間を要するだろう。
…もっとも、凶悪な盗賊なら容赦はしないが。
ヨルムドは痛みに喘ぐ男を一瞥した後、ダガーを鞘に収めてその場を後にした。相手は三人で、周囲に人の気配はない。
「ハルト!」
待機させた馬を口笛で呼び戻して騎乗した。メルトワに辿り着くにはこの森を通り抜けなければならず、その道のりはまだ半ばに過ぎなかった。
夕闇が迫り、森に夜が訪れる。
ヨルムドは野営地を決め、薪を焚いてあかりを灯した。携帯している干し肉を炙り、少々の果実酒で流し込む。森の向こうには宿場町があるが、二日はまともな食事にありつけない。
…静かだな。
夜泣きする鳥の声が聞こえる以外、森は静かな夜を迎えていた。マティスに猛獣の類はおらず、動物に襲われる危険性はないが、それだけに山賊が潜み易い状況なのだ。
食事を済ませると、火の傍で横になった。仕込んだ“虫除け“は、数時間の効力を保って身を守る。耐性を持たない者に対しては毒性があり、不穏な輩の敵意を喪失させる効果があった。
…マリアナ様はご健勝でおられるだろうか...
燃える炎の揺らめきを見つめながら、ふとマリアナを想う。
別れから三年...「護るべき姫君」であったマリアナは、ルポワド王太子の妃となり、王子の母となった。
…黒騎士を慕い、涙を流していたあの日の出来事は、私の生涯の思い出。
僅かに感傷に浸ると、ヨルムドは自らを嘲笑した。もはや会う事さえ許されない尊き姫君...今はただ、その幸せを願うのみだ。
「お前も安心して眠るといい。」
背後で繋がれた馬に向かって言うと、ヨルムドはゆっくり瞼を閉じた。「ハルト」は特殊な鍛えを受けている。“虫除け毒“”の害を被る心配はない...
翌朝、ハルトの嗎で目が覚める。
瞼を開けて周囲を窺い、すぐに起き上がった。夜が明けたばかりで、空はまだ薄暗い...
火は燻る程度に残っていたが、毒の効果はもう既に切れている。
ヨルムドは即座に出立した。
目を眇めた視線の先に数名の人間が転がっている...おそらくは夜襲を目論んだ山賊に違いない。
この手の輩は執拗に追いかけて来ることが多い…「昏睡」から目覚める前に、より遠くへ駆け抜けるべきだろう。
ハルトは「旅人の道」を疾走した。
森の出口へと歩を進める。この調子なら今夜までには宿場町に辿り着けるはずだが、油断は禁物だった。馬を矢で射られてしまえば万事休す。単独での戦いはより困難になる。
「...賊は足止めしている。何も問題はない。」
ヨルムドは確信し、更に加速を強めた…
「ヨルムドはマティスの森を無事抜けられるのか?」
傍に控えて立つエルナドにリザエナが言った。
「一人で行かせて本当に良かったものか...「月光」が如何に優れた騎士でも、賊に囲まれてはひとたまりもないぞ...」
諸侯から寄せられた要望書や嘆願書に目を通しながら安否を気遣うリザエナを、エルナドは無表情のまま見遣った。
マリアナとの別れを経てボルドーに帰還したヨルムドを哀れんでか、それ以後ずっと傍らに置いて心を配っていたリザエナ...それは温情でもあり、どこか贖罪の様でもあった様に思う…
「打診はしたのです...しかし、本人の意思が固いのですから仕方がありません。」
「意思が固いのは親譲り...そなたもだが、アイシャも相当なものだった。勉学や.研究に没頭し過ぎて、とうとう身体を壊してしまったのだ..もう少し自身を労っていれば、病になど負けはしなかったろうに。」
「妻が早逝したのは私の不得が原因です。アイシャに罪はありません。」
リザエナは読むのを止め、顔を上げた。アイシャの死について、エルナドが未だに罪の意識を抱いていることは明白だった。実際、アイシャが亡くなる瞬間にエルナドは立ち会えなかったと聞いている…そのことを今も悔いているに違いない。
「エド…」
リザエナは立ち上がった。エルナドに向き直って歩み寄り、彼の目を見つめた。
「アイシャは周囲の者に告げていた…曙光の騎士に愛されている自分を誇りに思う。求婚された時、天地が逆転するほど嬉しかったと…」
「リズ…」
「気持ちは痛いほど解る…私もゼナを失った。だが、エドは私とは違う…アイシャを慈しみ、大切にしていたではないか。ただ間に合わなかっただけだ。」
幼馴染みの慰めに心が痛む...アイシャが幼いヨルムドを遺して逝去してからニ十年以上が経った。後悔は今も拭えない…しかし、数年前、夫であるゼナに会えぬまま死別してしまったリザエナに比べれば、痛みは遠い記憶の彼方だ。
「倅の身はアイシャが守ってくれましょう...」」
エルナドは静かに言った。
「それが妻の遺言ゆえ...」
常に感情を見せないエルナドだが、眼差しは優しかった。
幼馴染みでもあるこの騎士が誇りであったのは、何もアイシャだけではなかったのだ。
「いかにもアイシャらしい言葉だ。.」
リザエナは哀しそうに微笑んだ。
「いかにも。」
今は天上人となったアイシャを想う。
リザエナの従兄弟であり、曙光の騎士の妻であった賢くも愛らしい乙女...
…君があの子を守ってくれると信じているよ。
エルナドは窓を見つめ、心から息子の無事を願った。
「追っ手か?」
背後に気配を感じていた。
…盗賊の類ではなさそうだが。
直感的に思う。相手の気配は色濃く、次第に強くなっていた。...敵かどうかはまだ判断できないが、只者ではないのは確かだ。
「足が速い…追いつかれる。」
ヨルムドは後ろを振り返った。さらに足音が迫り、その姿が見える。
…騎士?
考える間もなく、相手の馬が横に並んだ。騎乗している男がこちらを一瞥する。馬の背に長剣を括り付けており、革の防具と外套を身につけた騎士だった。
「この先で道が別れる…進むべきは左、誤るなよ! 」
そう告げると、速度を上げて追い抜いた。走り去る騎士の背が見える…鬼神の如き早さだ。すぐに道が二つに別れるのが見えた。あの騎士の忠告に従うかどうか、判断が迫っていた。
…先立った騎士の馬の足跡は左…この場にあっては盗賊よりも同胞の言葉を魔に受ける方がましというもの…危険など今更な話だ。
「従者を連れて行け。」
出発前、父は随行者の同行を薦めた。
「過信は禁物だ。確かにお前は武勇に長けた騎士だが、多勢に無勢ということもある。」
もっともな意見だったが、山岳とブローボーニを往来していた七年、幾度となく賊との応酬を繰り返した。山嶺に蔓延る山賊とブローボーニの森に潜む不穏の輩...ゼナとマリアナに気付かれぬよう排除し続けた経験と実績が「その必要はない。」という答えを導き出していたのだ。
…あるいは父上に対する虚栄であったかもしれないが…
愚かさは否めなかったものの、丸二日で越えられる難所に、随行者を伴う必要性はやはり全く感じられない...
ヨルムドは左に舵を切って突き進んだが、あの騎士の姿はすでに見えなかった。万が一、これが彼の策略なら、先に待ち受けるのは危険そのもの…結果はそう遠くないうちに出るはずだ。
騎士の忠告が“善意“”であったと証明されたのはそれから間もなくのことだ。
「旅人の道」からは大きく逸れたものの、狭く険しい道を抜けた先で視界が広がり、水のせせらぐ広場が待ち受けていた。あの騎士のものと思しき馬が小川の水を飲んでおり、その脇に立つ騎士が皮袋の中の液体を口に流し込んでいた。
ヨルムドが近づくと、騎士が立ちはだかって右手を挙げた。立ち姿はかなりの長身で、頭には革製のヘルムを被り、よくよく見ればかなりの武装を帯びている。
「俺の忠告を聞き入れたとは懸命だな。」
馬上のヨルムドに向かって騎士が言った。
「大抵の人間は忠告を無視するんだがな。」
…大抵?
騎士の服装から推測できるのは戦士であるという事実だが、大抵と発言するからには、この森を知り尽くしている者なのだろうか…
「この先は出口まで水場がない。馬にたっぷり水を飲ませておくといいぞ。」
騎士は告げるとヨルムドに背を向け、木の根元に腰を下ろした。日差しが薄く差し込んでおり、彼の足元を照らしている…
よほど自信があるのか、騎士は全くと言って良いほど無防備だった。携帯している林檎をかじり、欲しがって鼻面を押し付ける馬に半分を与えて微笑む。
…この男に感じるのは余裕…正体は不明だが、猛者であることは間違いない。
ヨルムドは馬を降り、馬をせせらぎまで連れて行った。
騎士の馬に並び、軽く首を振ると水を飲み始める…
「ボルドーの騎士か?」
男は唐突に尋ねた。
「なぜそう思う。」
「その銀髪はボルドー人の特徴だ。瞳の色といい、隠しようがないだろう。」
それについてはヨルムドも認めざるを得なかった。父の生き写しと呼ばれる自分だが、亡き母も銀糸の髪であったと聞く…母方の親戚筋である元首リザエナも同様だ…
「いかにも、私はボルドーの騎士だ。」
ヨルムドは素直に答えた。
「あんたは?」
「俺か?…一応騎士だが国に帰属しているわけじゃない。強いて言うなら“マティスの守人“というところだ。」
「…守人?」
「メルトワとの国境を行き来する旅人を誘導するのが俺の生業...知っていると思うが、この森は山賊どもの巣窟だからな。」
「何の為だ?」
素朴な疑問だった。単なる『善意』とは考え難い...危険を承知の所業なら、それ相応の理由があるはずだ。
「生業と言っただろう...人助けに理由が必要か?」
騎士はあっけらかんとした表情で答えた。
…必要だ。
ヨルムドはそう思ったが、口には出さなかった。不要な詮索はすべきではないと感じたからだ。
「…まあ、確かに多くの人間が忠告を無視して右の道を選ぶ…俺を信用せずにだ…止めはしないが、気の毒だとは思うぞ。」
「右を選べばどうなるんだ?」
「盗賊の棲息域に突入する...無数に仕掛けられた罠と敵襲…馬は奪われ、身ぐるみ剥がされる。先にはこの一帯を牛耳る元締めの根城があるんだ。」
「そんな者が存在するのか?」
「凶悪な奴だ。お前は強そうだが、あえて関わん方が身のためだ。」
「関わるつもりはない。私には任務がある…先を急ぐだけだ。」
淡々と語るヨルムドを騎士は顎を上げて見遣った。
…端正な顔立ち、鍛えられた身体…毒物の扱いに特化している騎士がいると聞き及んではいたが、まさかここで出会うとはな。
昨夜の出来事は興味深かった。
夜襲を仕掛けた賊がことごとく倒れ、誰も彼もが間抜けな顔で昏睡していた。周囲に漂う残り香から、危険を察して引き下がりはしたが、蹴飛ばしても起きないほど効き目は絶大だった様だ。
「俺を信用して正解だろう?」
騎士は言いながら立ち上がった。
「ついで仕事に森の出口まで案内してやろう…行くぞ。」
騎士は自分の馬に跨った。ヨルムドも後を追い、出発した。
二人は入り組んだ細い道を進み始めた。外套を翻しながら前を行く謎の騎士…彼の乗馬技術は卓越しており、足場の悪い石場やぬかるみも難なくすり抜ける…この道を進むためには、かなりの手練れでなくてはならないはずだ。
…ちいっ
ヨルムドは何度も舌打ちした。
誰に対しても容赦がないのか、騎士は気遣うことなく道なき道を突き進む…次第に険しさが増し、ついて行くのが精一杯になった。
…この男、本当に何者だ。
心の中で疑問を投げかけた。守人などと…偽りに決まっている!
「この坂を登れば視界が開ける、拍車をかけろ!」
騎士が前方から叫んだ。瞬時に拍車をかけ、急角度の上り坂を一気に駆け上がって行く…まったく何という速さだ。
「頼むぞ、ハルト!」
ヨルムドも拍車をかけた。先に見える騎士の背後に迫る。眩しい光が瞳に飛び込んだ。
森の木立から一変、目前に草原が広がる。
高台から眼下に眺めるその場所は、すでにメルトワの領地だった。
王都ポントワに至る平坦な道は、危険を乗り越えた旅人をどれほど安堵させたことだろう…
「ついて来られるとは…さすがだな。」
馬を降りて待っていた騎士が言った。
「ここまで辿り着けたのはお前が初めてだ。」
不敵な笑みを浮かべる騎士に、地上に足を着けたヨルムドは唖然とした。
「…どう言う意味だ。」
「途中に道はいくつかあったが、離れずに追って来るのを見て極めつけの順路を使ってみたんだ。」
「…は」
「すまん、久しぶりに骨のある奴に出会えた。楽しませてもらったよ。」
彼はそう言って手袋を外し、被っていた革製のヘルムを脱いだ。
風に煽られ、黒髪が広がる...
ヨルムドは目を見張った。
それは見たことのある顔だった。黒い髪と漆黒の瞳…バリトンの効いた懐かしい声…
「俺の名はゴドー・バスティオン。」
ゴドーは右手を差し出して告げた。
「お前の名は?」
「ヨルムド・エストナドだ。」
その手を握り、ヨルムドも応える。
「バスティオン...ユーリ殿の縁者か?」
「ああ、そうだ。ルポワドの英雄は我が一族の一人...もっとも、バスティオンの家系は多産で、生まれた男は家から片っ端から追い出されて散り散りになっている。だから、もはや誰が誰だか把握できんのだ。」
… ユーリ殿もそう言っておられた。
ヨルムドは頷いた。六男であるため、幼い時に家を出された…と。
「会ったことはないが、俺は叔父に似ているらしいな。一族の者にしょっちゅう言われたものだ。」
「ああ、そう思う...容姿も声もそっくりだ。」
「会った事があるのか?」
「ある。とても世話になった。」
「そうか...なるほど。」
ゴドーは納得して頷いたが、それ以上は何も訊かなかった。その言葉通り、彼にとっては遠い存在なのだろう。
「ポントワに行くのか?」
「いかにも。」
「ならば東に進め。美しい湖と..白鳥が見られるぞ。」
「東?」
「ああ、運が良ければハープの音色も聞こえることだろう。」
…いったい何のことだ。
尋ねようとしたが、ゴドーはすでに背を向け騎乗しようとしているところだった。
「充実した時間だった…また会おう「月光の騎士」」
「マティスの守人」は不敵に笑った。その笑みは最後に見たユーリの微笑みを彷彿とさせる…
ゴドーは右手を上げた後、躊躇いなく草原を駆け降り始めた。
下方に続く「旅人の道」...
ゴドーは森へと再び姿を消した。不可思議な体験だったが、ゴドーによって難を逃れた。
…感謝を伝えるべきだったな。
ヨルムドは後悔したものの、気を取り直し、ハルトの働きを讃え、鼻面を優しく撫でた。
つづく