45-01 放浪
リビングのソファに座るリディアの手に、包帯を巻いていく。なりふり構わない格闘のため、彼女の指は切り傷まみれになっていた。もちろん、おれの指も。
リディアは力なくうなだれ、下を向いたままだ。
「できた。しばらくは、力を入れないほうがいい」
「……」
なにも言わない彼女を前に、おれは小さく息をつく。跪いていた姿勢から立ち上がり、ドアの方を見た。
「……じゃあ、行くよ」
おれはここにいない方がいいだろう。もう二度と戻ることもあるまい。
ちら、と部屋を見回す。なつかしい家だった。胸の底がかすかに痛んだ。そのとき。
「……映話機の下の引出し」
ぽつり、とリディアの声がした。
「持っていって」
言われるままに引出しを開ける。宝石付きのアクセサリや婚約指輪のケース、貴重な書類の数々に混じって、一丁の銃が入っていた。
思わず振り返る。リディアはおれの方を全く見ないまま、小さくつぶやいた。
「防衛省の人に借りたの」
ぼんやりとどこかを見つめ、彼女は言う。
「引出しの底板を上げてみて。メモが入ってるわ。手記のアドレスが書いてある」
「……わかった」
ふーっ、と細く長いため息が聞こえた。真っ白い包帯も痛々しく、リディアが静かに顔を覆う。
「……これを使えなかった時点で。こうなることは決まっていたのかしらね」
「やっぱり、……きみは立派だよ」
やめてよ、と返すリディアの声は涙まじりで、小刻みに震えている。おれはわずかに目を細めた。本心からの言葉だった。
このひとは迷い、悩み、ためらっては傷付きながら、それでもいつだって正しいことをしようとする。だからこそ、おれは彼女を愛したのだ。
「……借りていくよ」
ささやいて、引き出しの中身をコートにしまう。たん、とゆっくり閉めた。
「リディア」
呼びかけに、彼女は返事をしない。ソファに浅く腰掛けて、うなだれたように下を向いたままだ。
おれは小さく息をつくと、言った。
「さよなら」
リディアはなにも言わなかった。最後だと思った。
廊下を抜け、玄関に向かうと、かちり、と鍵が開く音がした。リディアがデバイス越しにキーを開けたのだろう。
玄関扉の前、最後に一度だけ振り返る。長い廊下の向こうに、半開きになった子供部屋の扉。
「……」
おれは静かに目を伏せると、かつての我が家を後にした。
冬の路上で、ひとりになる。冷え切った風が正面から吹き付けて、ぴりっ、とあちこちの傷がしみるように痛んだ。
(これから、どこへ行こう……)
ハルカのなきがらは奪われてしまった。『魂』もだ。手がかりはもう、なにも残っていない。あるといえばクラウドのアドレスだが、それだけあったところでどうにもならなかった。
なつかしい家が視界に入るのが嫌で、どこへともなく歩き出す。両手の軽さが不自然で、なんだか妙な感じだ。コントラバスケースはもうない。守るべきものは、もう。
歩みが、しだいにゆっくりになる。歯を食いしばって下を向いた。
(リディア……)
一度は愛した女性を、あそこまで追い詰めたのはおれだ。
罪悪感が胸を突き刺した。私なんて偽物だと、全部私のせいなんだと、泣いている緑の瞳が思い浮かんだ。
彼女だけじゃない。ハルカも、ミックもだ。誰もが、この社会が謳い上げる愛に振り回されている。美しいものが手に入らず、苦しんでいる。なにが愛だ。あんなもの、多くの人を苦しめているだけじゃないか。
じくじくと心臓の奥が痛む。歩みはますますのろくなる。せめて止まってしまいたくはなくて、懸命に足を動かした。
行くあてなどない。帰る場所も、待つ人もいない。救うべき誰かも、もうどこにも存在しない。生きる理由さえも。
リディアのすすり泣きが脳裏に響いた。
『ハルカを助けて』
だが、おれになにができる。
なにもかも失って、手がかりすらなくして、一人になって。
おれは──どうすればいい。
わからない。考えても考えても、どうしても、わからなかった。
いつだってそうだ。わからないことをわからないままにして、すべてを無視して、強引にここまで進んできた。その結果がこれだ。いつまでも、わからないままではいられないのに。
痛む胸をひきずって、強引に足を早めた。ぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。冷えた髪の毛が指にからみつき、切り傷をひどく痛めつけた。
「……くそ……」
こぼれた声はあまりにも頼りなく、耳を塞ぎたくなるほど情けない。どこへ行けばいいのか、なにをすればいいのか、おれにはもう、なにもわからなかった。
だが、そのとき。
「コートニー、さん……?」
控えめな呼びかけがあった。顔を上げる。
そこには冬の陽光にきらめく紫の瞳が、驚いたようにおれを見つめていた。




