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【完結】さよなら火葬場  作者: Ru
── 第7章 ──
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44-03 「助けて」

 このひとは、罪悪感に潰されそうになっている。本当は、自分なんか誰も恨む権利がないと思っている。それをなんとか振り絞って、懸命に刃を振るっている。


(だって、そうだ)

 足元も危ういおれを、わざわざ支えて家まで連れ帰ったこと。毒を入れたコーヒーを、おれが飲むか飲まないかに賭けたこと。それだけじゃない、昨日の昼間、リディアからの通話を思い出す。


 おれにわざと大嫌いな言葉を言わせて、それなのに、

『私……もう少しだけ、考えてみるわ』

 彼女はたしかに、そう言ったのだ。


 きっ、と目元に力を込めて、リディアの刃を受け止める。ガッ、とてのひらに食い込む刃物の感触。


「おれは。きみを止める」


 刃物をつかもうとした手を振りほどき、距離を取って。包丁を持ち直したリディアはきつくおれを睨みつける。だが、おれは彼女を睨み返す気にはなれなかった。


 わざと肩の力を抜き、両手を下げた。かつて愛したひとをまっすぐに見つめる。そして、確信を持って言った。


「だってきみは──まだ迷っているじゃないか」


 虚を突かれたようにひるむリディア。だがすぐ目元に殺意が戻る。かすかにうつむき、震える声。


「──そうよ、……そうよ」


 包丁を持つ両手が震えている。ゆっくりと顔を上げ、彼女は歪んだ口を開く。


「私が迷っているあいだに選択は取り上げられて、二度と戻ってはこなかった。リツキのなきがらも、ハルカの命も、もう戻ってこない」

「それでもきみは、」

「だから私はあなたを殺すのよ!」


 おれの言葉は届かない。凄まじい形相のリディアが飛びかかってくる。空を切る刃物、おれを睨む昔の妻の、包丁を持った手首を掴み、抱きしめようとする。激しい抵抗がおれを襲った。それでも、止めるわけにはいかないと思った。


 暴れまわり、噛みつき爪を立てるリディアを、格闘のすえ床に組み伏せる。それでも彼女はもだえ、のたうち、吠えるように叫び散らした。


「なぜ生きようとするの。あなたにはもう理由なんてないはず」

「わからない」

「──だったら死んでよ!!」

「すまない」


 理由なんてなかった。ケイジを憎むこともそう、火葬にこだわることもそう、なにもかも自分を慰めるだけの逃避で、今となってはなんの効力もない。


 ずっと誰かを救いたいと思っていた。美しいことがしたいと願っていた。だけどそれはただの欺瞞だった。


 おれは自分が憎いだけだ。自分が救われたいだけだ。誰かを恨むことで、自分のような人を救うことで、気を紛らわせていただけだ。まやかしは消え去ってしまった。おれの理由はもう、どこにも残っていない。


(なのに、おれは、なぜ──)


 めちゃくちゃに暴れまわるリディアを、全身を使って押さえつける。包丁が二の腕を切り裂く。かっとした熱さと痛み。それでも耐える。


 ありったけの罵倒を投げつけられながら、かつて愛した女性を組み伏せた。手に噛みつかれ、同時に思い切り腿を蹴り上げられ、ひるむ。

 拘束を振りほどいたリディアの、目の前にひるがえる刃が、おれの首筋に突き立とうとして──ほとんど反射で、全力で払い除けていた。


「あっ──」


 かあん、と音を立てて包丁が床を滑っていく。からから、と回転した刃物が、小さなベッドの脚にぶつかって静止する。


 それきり──しいん、と静かになった。


 痛いほどの静寂の中、はあっ、はあっ、はあっ、と二つの呼吸音が混じり合う。緑色の瞳と、おれの視線が交差する。


 ぎゅうと目を閉じて、おれは、


「すまない。おれは──きみを、救うべきだった」


 絞り出すようにささやいた。まぶたを上げる。


 リディアの目は、呆然と見開かれていた。その眼差しにみるみる涙の膜が張る。ひぐっ、と喉の奥からつぶれたような嗚咽が漏れた。


 リディアの全身から、力が抜けていく。美しい緑の瞳、その端からぼろっ、と大粒の涙がこぼれおちる。


 儚げなくちびるがわなないて、


「…………ハルカを助けて」


 それはぼろぼろに震えて、今にも消え入りそうな声だった。


「私のせいなの。私が、自分の復讐に振り回された結果、あの子は死んだの」


 後から後から目尻を伝って、涙が滑り落ちていく。呆然としていた緑の瞳が歪んで、濡れて。


「十五歳だった。……十五歳だったのよ」


 それきり、彼女はしゃくりあげてしまった。


 ややためらって、おれはリディアの細い手をそっと握る。リディアはおれを握り返してはくれなかった。きっともう、二度と。


 青い壁とモビール。頭上に揺れるロープ。散らばったおもちゃの合間に転がる包丁。すすり泣きの声。


 この家に漂っていた十年分の怨念が、呼吸するように揺らいでいる。

 泣きじゃくるリディアを見下ろしながら、おれは、そんな気配を感じていた。





 

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