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【完結】さよなら火葬場  作者: Ru
── 第7章 ──

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44-02 「助けて」

 青い壁紙を背景に、リディアの構える包丁が不気味なほどぎらりと光って見える。


 よくわからないうめき声を上げ、小柄な身体が踊りかかってきた。降り注ぐ刃をかわしながら、必死で逃げ惑う。なんとか、なんとかリディアを傷付けず、無効化できないか。


(せめてあの刃物さえ──)


 だが、リディアもそれをわかっているのだろう。おれがなにをしても、必死の形相で包丁だけは手放すまいとしている。何度目かのもみあい。おれは叫ぶ。


「おれが憎いのはわかる。だが、なぜハルカをそそのかした。どうしてこんなことに手を染めたんだ。あの少女には、なんの罪も、恨みも、ゆかりさえなかったじゃないか」


 ハルカが誕生日の前日に死んだ理由が、今ならわかる。

 彼女は十五歳であるうちに自殺する必要があったのだ。


 準成年と未成年では、世間の扱いがまったく違う。ひとりの少女がよってたかって大人に騙され、利用され、自殺にまで追い込まれた。その被害者がまだ十五歳だったなら──どれだけの反応が巻き起こるか、想像もつかない。


 だからこそ、彼女は『誕生日には間に合わせたかった』と言ったのだ。その言葉を聞いていたリディアなら、ハルカを守ることができたかもしれないのに。


 なぜ優しかったはずの彼女が、なんの罪もない少女を陥れてまで、私怨に身を委ねた。それほどまでに、おれが、ケイジが、憎かったのか。

 けれどリディアはおれの言葉に激しく顔を歪めた。


「なぜ? なぜって、」


 青い子供部屋に刃物がひらめき、床を転がって逃げるおれを踏みつけ、リディアの声が降ってくる。


「……もし整然と、それを言葉にできたなら──私は、こんなことはしなかった」


 唐突な、ぽつん、と小さな声。さっきまで喚き散らしていたのが嘘のようだった。


 思わずリディアを見上げる。両手で包丁を振りかぶる昔の妻。その背後、天井で揺れている丸いロープ。おれを見下ろす緑色の瞳、その奥になにかひどく深い感情を見て取って──おれは悟った。


 淡々と説明を重ね、美しく微笑み、おれに刃物を向けてきたリディア。当たり前のようにハルカの犠牲の上での復讐を語った彼女は、しかし今、どうしようもないほど傷付いている。それがはっきり、わかってしまった。


 胸の痛みに顔が歪む。懇願の声が出た。


「こんなこと、もうやめてくれ」

「うるさい」

「きみの人生のためだ」

「人生がなに? 私はどうせ偽物なの。守るものなんてなにもない」

「偽物……?」


 ぎらりと光が目に刺さる。とっさに首をひねる。ガツッ、とおれの顔、すぐ隣で包丁が床に突き立った。


 覆いかぶさってくるリディアを蹴り飛ばす。小さなうめき声、転がる彼女から、包丁を奪おうとする。しかし一瞬の差で、ふたたび間合いを取られてしまった。

 荒い息で肩を激しく上下させ、リディアは言う。


「愛は行動だと思ってた。嘘でもいい、優しくしようと思ってた。だけど自分が偽物だってことくらい、私が一番わかっていたわ。愛してるふり、恨んでないふり、優しいふり、親切なふり、協力者のふり、裏切り者のふり。なにもかもぜんぶ嘘ばっかり。本当の、愛ある人間になれなかった」

「ちがう、きみは──」

「それでも……ただひとつ、本当を見つけたと思ったのに」


 かすかに震える声でつぶやくと、彼女はきっと顔を上げる。凄絶な表情。


「あなたが涜したのよ。思い出も、美しかったものも、リツキのなきがらも、全部、あなたが」


 なにも、言えなかった。目の前に立っているかつての妻は、心から絶望しきった顔をしていた。


 リディアが床を蹴る。とっさに腕で自身をかばう。コート越し、腕を切り裂かれる鋭い痛み。炎のような声がする。


「十年間ずっと憎かった。あなたの姿を見るたびにヘドが出そうだった! 世間から隠遁して、人目から逃げ出して、ニュースを眺めては不満そうな顔をするばかり。バッカじゃないの!? あなたにはケイジ・ニューマンを恨む権利なんかない」

「リ、ディ──」

「火葬場に引きこもって、自分を棚上げして、画面の向こうへ恨み言を垂れ流す。社会から逃げ出して、罪からも逃げ出して、ケイジ・ニューマンに鬱屈をぜんぶ押し付けて。ちゃんちゃらおかしいと思ってたわ」

「ぐっ……!」

「諸悪の根源は誰だと思ってるの? 全部あなたじゃない!」

「その、通りだ……っ」


 めちゃくちゃに振り下ろされる包丁は、まるでコントロールが定まっていない。何度も空を切りつけて、たまにコートを刃先が裂く。ぢりっ、とした引き裂かれる痛みをこらえ、おれは胸のうちに吹き荒れるものに歯噛みした。


 なにもかも、リディアの言うとおりだった。狭っ苦しい火葬場でスクリーンを睨みつけて、ケイジ・ニューマンを憎んでいれば楽だった。だけどそんなものは現実から目を背けていただけ、ただ逃げただけじゃないか。


 本当に憎むべきものはいくらでもあった。誰よりも忌むべきはおれ自身だった。そんなこと、初めからわかりきっていたのに。


 誰でもいいから憎んでいないと壊れてしまう。苦しくて、耐えられなくて、


(だからおれは、憎しみの糸にすがったんだ)


 その先がどこにも繋がっていないと、知っていたのに。


「私だけ。私だけよ」

「リディア、待っ……」

「私だけはあなたを、ケイジ・ニューマンを、すべてを、恨む権利がある! ねえ、そうでしょう!?」


 歪んだ形相、ひきつった声、血を吐くように悲痛な叫び。その向こうになにか、閃きに似たものを感じて、おれは小さく息を呑む。


(これは──)


 一瞬で、確信が天から降り落ちてきた。

 ──これは、演技だ。




 


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