44-01 「助けて」
不自然にこわばった笑みを貼り付け、リディアは淡々と語る。おれは頬を引きつらせ、つぶやいた。
「……きみは環資省側の人間でもありながら、防衛省側の人間でもあったわけだ」
「もう少し正直に言うと、どちらの人間でもないんだけどね」
リディアが肩をすくめる。それならば、とひとつの可能性に思い至った。
「環資省の追手がおれのGPSを把握していたのも、きみの差し金か」
「どうしてそう思うのかしら」
「防衛省ならともかく、環資省がデバイスのGPSを抜けるなんておかしいと思ったんだ。おれがなにか、自分で許可を出したとしか考えられない」
リディアは軽く目を見開くと、察しが良いのね、と笑った。
「……あのアプリだな」
「そうよ。ブレイントレーニングアプリじゃないの」
くすくすと彼女が小首をかしげる。好きだった仕草。今度は、視線を外さなかった。美しい微笑みがおれを見る。
「いくら演技を見抜くのが得意だからって、慢心してたんじゃないかしら。知ってる? あなた、私が首をかしげて笑うとき、かならず目をそらすのよ。そのタイミングなら、どんな演技も見抜かれない」
にこりと笑うリディアは前と変わらず、儚げで、無邪気で、美しかった。じわじわと、諦念じみた後悔が押し寄せる。
おれの手首をとって、認証をちょうだいと微笑んで、アプリをインストールした。一見平和だった冬の朝。あのときにはもう、リディアはこんなことに手を染めていたのか。なぜ気付いてやれなかった。
リディアが包丁を握り直し、一歩前へと歩み出る。そろそろ説明はおしまい、と細まった目。白い頬から、笑みが静かに消えていく。
「さあ、あの子の『魂』を出して。大人しく渡してくれたら──苦しまずに死ねるかもね」
苦い感情と後悔を押し殺し、答える。
「『魂』は……ない。さっき、ケイジ・ニューマンに奪われた」
「なんですって?」
リディアが一気に顔色を変えた。淡々としていた表情がくずれ、歪んだ口元から低い声が漏れ出る。
「……この、役立たず」
「──っ!?」
一切の予備動作なく切りかかってきたリディアを避ける。床のおもちゃが音を立てて散らばる。対象を失い、体勢を崩したリディアが、ぼそぼそとつぶやいている。
「本当に使えない。もう、いいわ」
小柄な影が身を翻す。包丁を振りかざす。憎悪にまみれた声がした。
「死んで。死んでよ、今すぐ」
「リディア──」
避けるおれにリディアが詰め寄る。反射的に防いだ手に切り傷が走る。
刃物を振り回し、リディアがまくしたてた。
「あなたが憎かった、大嫌いだったわ、殺したいほど」
切りつけられそうになり、飛び退いてなんとか距離を取る。腰だめで包丁を構え、リディアが突っ込んでくる。その手首を叩き落とそうとして、だがうまくいかない。もみあいながら彼女は叫ぶ。
「あなたの口癖──きみは立派だよって言葉、大嫌いだった」
憎しみもあらわな叫び声が、ずきりと胸に突き刺さった。
「昔は好きだった、嬉しかったし誇らしかった、でも。私の大好きだった言葉を、あなたは逃避に利用した。現実から、私から目をそらすための、都合のいいごまかしの言葉」
「く──っ」
手首を掴んで振り回すも、彼女は刃物を手放さない。
どん、と胸を突き飛ばされ、咳き込んだ。
都合のいい逃避。まさにその通りだった。リディアは立派だ、いつも正しい、おれとは違う。そう言い聞かせることで、おれは全てから逃げていたのだ。
「あなたの口からあの言葉がでるたびに、きれいだった思い出が涜されていく。二度と聞きたくなかったわ」
汚物を吐き捨てるように言い放ち、包丁が振り下ろされる。片腕で防御して、細い手首を思い切り叩いて、それでも彼女は刃物を握ったままだ。
執念じみた燃える瞳が、ぎりぎりとおれを射抜いた。胸の底がずん、と重くなり、心臓がぎゅうと痛くなる。心底思い知る。きっと今、つけを払っているのだ、と。
本当は知っていた。彼女の恨みも憎しみも、おれは薄々気付いていた。気付いていながら十年間、ずっと彼女のそばにいた。いつか断罪されるかもしれない。そしたらおれは受け入れよう。そう思って、ずっとそばにいた。
(だけど、今は)
刃物ごと体当たりされ、身をよじってなんとか刃先をかわす。避けられた勢いのまま床に転んで、でも彼女はすぐに跳ね起きた。




