36-03 トッカータ
(こんなこと、受け入れるんじゃなかった)
心底後悔する。思えば、ミックがあっさりゲームを受け入れた時点でおかしかったのだ。雰囲気に飲まれてなし崩しでこんな追加条件を受けるなど、あるまじき失態だ。
頭の回転ならおれの方がマシだとふんで、トッカータを選んだのに。この状況ではゲームの腕前などなんの意味もない。普段なら捨てるような駒ひとつが命取り、通常戦略など通用しない。
そう思って盤面を見て──気付く。ミックの駒運びは勝つためじゃなく、〝ひとつでも多くの駒を取るため〟のものだったのだ。
(くそっ……)
盤面がまともに見えていたのは、おれではなく奴の方だったらしい。らしくもない失態だった。だが命を削り合うぎりぎりの精神状態で、まともな打ち筋など不可能だ。対応しているミックの方が異常とも言える。
おれは作戦を切り替えるかどうか、迷って、息を吸って。変わらず、無難な位置に駒を置いた。ミックがひくっと指先を動かす。
(……おれは、勝つ)
人を殺す気など微塵もない。殺されるのもごめんだ。だったら、することは一つだ。できるだけ駒を取らない、取られないようにしながら──一足飛びに相手を詰ませる。それしかない。
震えそうになる指先で、とんとん、と手の甲を叩いた。心臓はまだやかましく鳴り響いていたが、浅く震える呼吸だけは、少しはましになっていた。
おれの心情など知りもせず、ミックは淡々と駒を進めている。相変わらず攻撃的かつ場当たり的な駒運びだ。相手の駒を取ることだけを最優先して、自分のそれが取られることにまったく頓着していない。
こんな状況でありながらもミックは優先順位がはっきりしており、冷静だ。〝得意分野〟というのは本当らしい。のらくらと逃げ回るおれに焦ることもなく、ひとつずつ駒を狙っていく。かつん、と駒の音。
(く……っ)
嫌なところに打たれた。おれが駒を取りたがらないのをとっくに気付いているのだろう。かなり大胆な手だった。総崩れを防ぐには、いま打たれた駒を取ってしまうほかない。
おれは心中で悪態をつき、息を詰めて、駒を手に取る。そして心を決めて、ミックの駒を取った。からん、と盤外に駒が置かれる小さな音。
ミックの視線が、すっと銃を見た。促すような沈黙。伸ばした己の手が、かすかに震えている。痛いほどの緊張を通りこし、いっそ非現実的な酩酊感がおれを満たす。
小刻みに震える指先でなんとか銃を取り、ジャッ、とシリンダーを回した。静かに構える。ミックはただ黙っていた。
いくつか覗けるシリンダーに、銃弾は見て取れない。それはつまり、発射の可能性がゼロではない、ということだ。
怖かった。ためらいと震えで、銃口がさまよう。そのとき、ミックがふ、と笑った。
ガッ、と銃を持つ手ごと掴まれて、びくりと肩が跳ね上がる。ミックはおれの手を握ったまま、ゆっくりと銃口を己の額に向けて、定めた。
「……ここだ」
冷や汗が止まらない。つうっ、と背中に伝い落ちる感触に、唾を飲み込む。強がりの軽口は、ひとつも出てこなかった。喉がひりつく、震えそうになる手を、ミックの熱い手のひらがぐっと握っている。逃げることができない。
(リツキ、ハルカ──)
おれは目をつむって、なにかに祈って、引き金を引いた。
ガチン、と空回りする手応え。どっ、と力が抜けた。崩れ落ちたくなるのを必死でこらえる。はあっ、はあっ、とあえぐように息をついて、新しく駒を持とうとする手が、小刻みに震えていた。
迷いのない、鋭い目がおれの手元を見る。軽く眉をひそめ、ミックが口を開いた。
「なぜ、そこまでする。ハルカ・シノサキの正体を知ったのだろう。奴はいわば、貴様の敵だ」
冷静に駒を置く男の口ぶりに、おれは表情が歪むのを感じる。
「だからって、子供のなきがらを、大人の道具にしていいわけがない」
こんなのは間違ってる。かすれた声で言うと、ミックが眉を持ち上げた。ぎろりとした上目遣いが、おれをまっすぐに睨みつける。
「子供、だと? ばかばかしい」
「なんだと……?」
忌々しげに言い放たれ、不快感がこみ上げる。しかしおれの反論が飛び出すより先に、ミックが言った。
「あの少女は革命家だ。ハルカ・シノサキの存在は、その言葉には、強大な力があった」
だからなんだというのだ。いくら大人びていても、立派なことを言っていても、子供は子供だ。
「子供だろうが大人だろうが、力あるものはその存在に責務を持つ。たとえなきがらを利用され、蹂躙され、自らの死を闇に葬られようと──彼女は、それだけのことを成し遂げてきたのだ」
机の上で、ミックの手がぐっ、と握られる。駒が入り乱れ、混迷する盤面を見つめていた鋭い目。それがすっと持ち上がり、撃ち殺すような強さでおれを見据えた。
「世界を変えようとする者は、その世界に、ねじ伏せられることを受け入れなければならない」
「そんなこと、おれは、納得できない……まだ子供なんだ」
「いくら子供の死体に執着したところで、あれは貴様の息子とは違う」
「それくらい、わかっている……!」
カッ、と駒を叩きつける。ミックのそれを奪い、おれは銃を手にとった。震えながら額に狙いを定める。ミックはただ、静かに目を伏せて引き金を待った。
銃口がかたかた震える。伏せた短いまつげの奥、鷹の目にはなんの恐怖も見て取れない。なぜこの男は、ここまで冷静でいられるのか。
おれの疑問に答えるように、ミックがぽつりと言った。
「こんなの、どうということはない」
そんな訳はないだろう。いくら軍の人間だからといって、現代は愛の全盛期だ。銃弾飛び交う戦場など、ほとんど存在していない。それなのに──
「おい。早く撃て」
「っ……」
こっぴどく心音を高鳴らせる恐怖、汗でグリップが滑るのをぐっと握り直して、はっ、はっ、と犬のような浅い呼吸。震えが止まらない。それでも、やらなければならない。
震えと怯えに耐えて、おれは指先を引き絞った。




