35 交渉
気が付けば、とっさにハルカの入ったケースを抱き寄せていた。
転がったジェームズの死体──そうだ、こめかみを撃ち抜かれて生きている人間などいない──を傍らに、ミックへと向き直る。
ミックはひとりで、ぼろぼろになっていた。どうやら〝迎え〟との戦闘は大敗だったようだ。
サイレンサー付きの銃はどこにもなく、無骨な手に握られているのは小ぶりなリボルバーだけ。あちこち怪我もしているようで、足取りはどことなくおぼつかなかった。
おれは苦い気持ちで口を開く。
「デバイスは捨てたのに、よく追ってこられたな」
「なに……?」
あからさまに眉根を寄せられて、困惑した。
「GPSを抜いていたのは、おまえらじゃなかったのか」
「違う。だが、うち以外にそんな芸当ができるところは──」
そこまで言うと、考え込むように口をつぐむミック。どういうことだ。抜いていたのは依頼人側だけ? まさかミックらも、〝迎え〟の正体を知らないのか?
(それに……)
うち以外に、という言葉。それはつまり、『うちならばGPSは抜くことができる』ということだ。そんなことができる奴らはそう多くない。警察か、あるいは軍隊。
ミックたちが振り回していた銃は警察に支給されるものではない。今ミックの手にあるリボルバーならまだしも、消音器のついた大ぶりのオートマチックは絶対にないだろう。加えて、小隊長、というミックの呼称がある。
わざとそう呼ぶことで目くらましをしたとも考えたが、あの『小隊長』の叫びはあきらかに故意ではない、口を滑らしたという感じだった。だったら、答えはひとつだ。
(軍隊──防衛省が出てきている……?)
しかし、なぜこの件に防衛省が絡むのか、まったくわからない。たとえハルカ・シノサキがガラサだったとして、単なるアンダー発の活動家の死に、軍人が銃を持ってしゃしゃり出てくる理由はなんなのか。
顔をしかめるおれをよそに、ミックは銃口をこちらに向け、鋭い視線でおれを見る。
「なぜ貴様はここへ来た。この場所は警察も知らないはずだ」
(……なるほど)
本当に交渉事の下手な男だ。これでミックが警察ではないことが確定した。おれは小さく息を吸い、コントラバスケースの把手をぐっと握る。
「なら、防衛省は知っている、と?」
ぴく、とミックが眉を持ち上げ、眼光がぎろりとおれを睨んだ。しばしの睨みあいと沈黙のすえ、ふうっ、と諦めたようなため息が聞こえた。
「答えはないだろうが聞いておく。……なぜ俺が軍の人間だと?」
そんなもの、推察の材料なら腐るほどあった。だが、手の内をわざわざ晒す必要もない。肩をすくめ、軽く言った。
「おれは顔が広くてね。中には親切な人もいるのさ」
ミックが舌打ちする。
「まあ、いい。こちらとしては好都合だ」
ぴたりと額に狙いが定められた。ケースを引き寄せ、ぐっと身体に力を込める。ちら、と窓に視線をやった。それを見たミックが淡々と言う。
「あいにくだが。今度は庇の類はない」
「そりゃあ残念だ」
ここは三階。硬いコントラバスケースごと飛び降りれば、怪我をする可能性が高い。おれの筋骨格だとさすがに死ぬことはないだろうが、負傷で動きがにぶれば、即座に捕まることは必至だ。
(せめてハルカをケースから出せて、なおかつ二階だったなら……)
くそ、とあたりを見回す。倒れた椅子、ジェームズの死体、飲みかけのティーカップ、ボードゲームの盤に散らばった駒たち。
(ゲームの、駒──)
気が付けばほとんど苦し紛れに、なあ、と声を上げていた。ぎろりと睨まれ、おれは小さく肩をすくめる。
「あんたも負傷してる。いくら銃があったって、ちっぽけなリボルバー一丁だ。おれとここで殴り合うのは得策じゃないだろ」
「……なにが言いたい」
静かな低い声。一応は、こちらの言い分を聞くつもりはあるらしい。
「駆けをしないか」
ちら、と投げかけたおれの視線をミックが追う。尖った眼差しが盤を見て、彼はかすかに眉を寄せた。
「トッカータ……」
「ああ。こいつで、時間を賭けようじゃないか」
「時間だと?」
途端に低くなった声に、おれはてのひらを広げて突き出した。
「五分だ。おれが勝ったら、あんたは五分間じっとしてる。あんたが勝ったらその逆だ。五分間、煮るなり焼くなり好きにしろ」
「……たった五分で逃げ切れるつもりか」
「なら、三十分くれるとでも? これは譲歩だ」
「貴様は譲歩できる立場ではない」
その言葉を聞くやいなや、おれは窓ガラスに向かって拳を振り下ろした。反射的に一歩出るミックを前に、ガラスに激突する直前でぴたりと拳を止める。ミックが不機嫌そうに顔を歪めた。
「なんのつもりだ」
「あんたが勝負に応じないなら。ここを叩き割って、ハルカの死体を放り投げる」
「な──っ」
「さぞ目立つだろうな。すぐに黒山の人だかりだ」
ものすごい顔でくちびるを噛むミック。やはり彼は目立たずに死体を回収したいらしい。とはいえ、こちらもハルカを手放したくはない。この手段はどちらも痛手を負うことになる。それでも、なにもしないよりはマシだ。
おれの視線に宿る本気を悟ったのか、ミックは押し殺したため息をついた。忌々しげに吐き捨てる。
「……勝負を受けよう」
「感謝するよ」
なにが感謝だ、と言いたげな顔がおれを睨む。
素知らぬ顔で窓から離れ、ケースを傍らに下ろすと、おれはさあ、と彼に椅子を勧めた。




