34-02 エンバーミング
「ハルカ嬢の家は椅子と机と、その上に写真立てと、空の瓶がぽつんとあるばかりで、ほとんど空っぽだった。今思えば、身辺整理を済ませていたのだろう……」
嘘を言っているようには思えなかった。おれは黙って彼の話を聞く。
「対話中、彼女の様子はおかしくなった。会話がまるで噛み合わなくなり、不自然な筋肉の動きを見せ、じきに呂律が回らなくなった。大量服薬──それがわかったが、すべては遅すぎた」
「遅いわけないだろう! 医者だろうが! 救命処置をしたら間に合ったはず──」
「怖かったんだ!」
両手を振り回し、ジェームズが叫ぶ。血走った目がおれを見て、仕方ないんだ、と歪んだ声。
「怖かった。どうしても、怖かった……だから私は、倒れたハルカ嬢が痙攣して、その呼吸が少しずつ止まっていくのを、ずっと……黙って、見ていた」
(なんてことを……)
あまりのことに、罵りすら出てこない。言葉を失い息を呑むおれを、ジェームズの泣きそうな目が睨んだ。
「やっと彼女が死んだのを確認して、ほっとしたのもつかの間だった。この死体が見つかったら、間違いなく私は破滅だ」
それはそうだろう。ジェームズがハルカの家に入ったのは、路上の監視カメラで確認できるはずだ。それに〝営み〟の動画だって、ハルカがどこに残しているかわからない。
「だから、家中の指紋を消して、死体を持ち帰って、隠した」
「……隠した?」
かすかな頷き。おれは目を細める。
「腐敗臭が怖かった。浴室で血を抜いて、表面にナノマシンの噴射をして、エンバーミングの真似事をした」
「あのお粗末なエンバーミングはおまえの仕業か。薬品や器具は」
「病院の、予備倉庫から盗んだ」
在庫の管理は月に一度だったから、とかすれた声。
「なんとか処置を終えて、死体は庭に埋めた。だが、三日と保たなかった。うちに帰れば死体がある。その生活に耐えられなくて……逃げ出したんだ」
(ん……?)
違和感。なにかが噛み合わない。おれは眉を持ち上げる。
「待て、じゃあハルカの死体は」
「うちの庭だ」
そんな訳はない。だってそれなら、今ここにある死体はなんだというのだ。
「おい。そんなはずないだろう。この期に及んで、なぜまだ嘘をつく?」
「嘘じゃない、私は全て話している、本当だ!」
「だってハルカは今、ここに──」
「っ……!?」
思わずコントラバスケースを指したおれの指先を追って、ジェームズの視線が空を走る。ケースを捉えた目が大きく見開かれ、あ、あ、と震える声が発せられる。
「は、ハルカ──うそだ──」
ひいいぃっ、と甲高い悲鳴。椅子の転げる音。ジェームズが床に這いつくばる。嘘だ、嘘だ、私は悪くない、連呼する男に向かって、おい、と声を荒げる。
「私は悪くない私は悪くない、私は、私は」
「おまえは……っ」
おれの責める言葉より先に、ジェームズがかぶせるように絶叫した。
「彼女は哀れな少女だった! 母を亡くし、父親を知らず、たったひとりで〝なにか〟と闘っていた!」
うずくまり、頭を抱え、背をぶるぶる震わせながら、ジェームズは怨嗟のように言い募る。
「あの子の闘う相手は私には計り知れない大きなもので、彼女は火のような苛烈さで闘争に全てを捧げていた……止めることなど不可能だ! 私は彼女の願うことを全て叶えてやり、あとは祈るしかできなかったのだ……」
(願いを叶えた……?)
なにを、ばかなことを。感情が煮えたぎり、ぎりぎりと拳を握りしめる。喉の奥からひどく乱れた声が出る。
「馬鹿が……! だったらどうしてハルカを抱いた、黙って手術をした、目の前で死ぬのをなぜ、ぼうっと眺めていた! それが彼女の本当の願いだったとでも言うのか!?」
そんなはずはない。彼女はまだ十五歳だ。未来だって希望だっていくらでも持っていてしかるべき、不自由なく愛されて健やかにあるべき女の子だ。
「あんたは大人だ。彼女を守ってやるべきだった。おまえが守りたいのはいつだって自分自身だ!」
「私は祈った、彼女のために心から祈った、だが彼女はそれを跳ね除けた、だから──仕方がないんだ」
「ふざけるな。なにが愛は祈りだ!? そんなの、なにも行動していないことを正当化しているだけ──」
そこまで言って、はっ、とした。
(なにも行動していないのは──誰だ?)
思い出されたのは、首の後ろを叩く冷えた金属の感触。ミック・リーの怜悧な声。罪の記憶、逃げた事実、安っぽいヒロイズムという言葉。
──この男と、おれはなにが違う。
おれだって同じだ。弱いものを、見捨てられた人たちを救うんだと息巻いて、そのくせ、彼らのためになにもしなかった。おれにできるのは死体を焼くだけだと言い訳して、助けることすらせず、彼らが死んでいくのを、黙ってじっと見ていた。それはこいつと、何が違うんだ?
死んでからのこのこ現れるヒーローになんの意味がある。弱き者が沈んでいくのを黙って見ているだけの人間の、どこが崇高だと?
(おれのしてきたことは、こんなにも──)
みっともなく床に這いつくばり、私は悪くない、と連呼するジェームズ。あまりにも醜悪な様子に自分の姿が重なって、愕然とした。絶望じみた感覚がこみ上げる。
その激情を振り切って、おれはだん、と床を踏み鳴らし、ジェームズに詰め寄った。
「すべて、話せ」
ひっ、と喉が潰れたような声を上げ、ジェームズが後ずさる。さらに近付く。逃げ出したいのだろう、老いた手が窓枠にすがりつく無様な仕草。
依頼人やミックたちは、胸の傷を気にしていた。そしてハルカは、生前に『魂』を摘出した。彼女の『魂』には、なにかがあるのだ。
「なぜハルカは『魂』の摘出を? それは今どこだ」
「違う! 『魂』は戻したんだ、私はなにも知らな──」
──ぱあん、と弾けるような音。
ジェームズのこめかみから、赤いものが放射状にぱっと広がった。それがびしゃ、と床に叩きつけられ、目の前で見開かれた目、その瞳孔が、ゆっくりと開いていく。
(な──っ)
揺らいだ身体が倒れる、どすっ、という重い音。じわじわと床に広がる赤黒い液体が、白髪を汚している。
呆然としているおれの、視界のすみで、見覚えのあるシルエットがちらりと動いて──はっ、とした。くちびるが勝手に動いて、人の名を取る。
「……ミック・リー」
薄く煙のたちのぼる銃を構えて、鷹のように鋭い目が、射抜くようにおれを見据えていた。




