33-01 少女趣味
おれはカップに口をつけ、ジェームズを観察する。ここからが演じどころだ。息を吸い、ゆっくりと尋ねた。
「なぜ、失踪したのですか」
ジェームズが黙り込む。かすかにうつむく眼差しに向かって、おれは淡々と言葉を重ねた。
「失踪直前、長期の休みを取ったと聞いています。〝消えた〟ことを周囲に悟られる前に、できるだけ遠くへ行くつもりだった。だが、この町が思いのほか良くしてくれたので、居ついてしまった。違いますか」
長い、長い沈黙。ジェームズの視線が、気付かないほどわずかに空をさまよう。頬の動き、喉の嚥下、そういった一つ一つを観測し、おれは彼をじっと待った。
やがてジェームズは、観念したようにうつむいた。目元が隠れた。
「……自分の無力が、嫌になったのです」
「無力? なぜ。あなたは、近隣ではもっとも優秀な外科医だった」
「そんなもの。生命の理不尽の前では、なんの意味もありません」
声が小さく震えている。ふーっ、と長いため息が聞こえた。
「なにか決定的な出来事があった訳ではないのです。ただ──」
おれは黙って続きを促した。ジェームズは俯いたまま、ゆるく首を振る。ただ、と繰り返す小さな声。
「医療の現場では、理想通りにならないことは、どうしても積み重なっていく。祈っても願っても、届かないことが増えていくんです」
白髪のつむじから、諦念じみた言葉が続く。
「少しずつ、少しずつ──私は削れていった。摩耗して、すり減って……いつの間にか、だめになっていた」
ある日突然気付いたんです、と彼は言う。
「もう無理だ、と。だから──姿を消しました」
絞り出すようにそこまで語ると、彼は細い息を吐いた。沈黙が降りて、祈るように絡み合わせた指先が、ぎゅうと握られる。
「ここにいること、他の人には黙っていてもらえませんか。私は帰れません。せっかく、ここまで来てくださったのに。申し訳ない……」
掠れた声で、力なくうなだれ、おれに頭を下げるジェームズ。それは本当に、世界の理不尽に傷付けられ、力を失った男のように〝見えた〟。だが。
呼吸の間、視線の動き、記憶を探るようなまばたきの様子、言葉を口に乗せる直前のわずかな逡巡。おれは知っている。
(これは、演技だ)
目が、うっすらと細くなった。思ったよりも冷静な声が、自分の口からこぼれおちる。
「……そんなことを言うのに、医療を手放せないのですね」
「えっ」
「そうでしょう。中学校で、医師としてボランティアを」
おれの言葉に、ジェームズははっと顔を上げると、手を振った。慌てた声。
「ち、違います。医療行為はしていない」
たしかにそう言うしかないだろう。身元の証明も、医師免許の提示もないまま医療行為を行うのは、あきらかに違法だ。
だが、彼がどこかの高名な医師であるというのは、この町ではすでに自明のこととなっていた。医療行為か、それにかぎりなく近いことをしているのは間違いない。
(そう。たとえば──〝診察〟とか)
表向きのジェームズは聖職者じみた老紳士だ。それに加えて今の時代、子供という〝社会の宝〟に下卑た欲望を押し付ける人間がいるなんて、想像すらできない人間がほとんどである。それが中学生の子供なら、なおさらだ。彼女らは自分に向けられた眼差しの意味にまったく気付かず、ためらうことなくジェームズに肌を晒すだろう。
「ボランティア先。ずいぶん、レトロな制服ですね」
「え? ああ、そうですね」
唐突に話題を変えたおれに、ジェームズが目をしばたたかせる。おれは素知らぬ顔で続けた。
「最近ああいう制服は見なくなりましたが。なんというのでしたっけ、あの」
「セーラー服ですね」
即答が返ってくる。おれはああそれです、と笑みを浮かべた。
「たしか、戦前の──旧国の服でしたっけ」
「その呼び方は、あまりよろしくありませんね」
すみませんと会釈する。ジェームズは苦笑すると、まるで生徒に講義するように口を開いた。
「もともとは、さらに別の国の服ですよ。それがこちらに伝わって、女子の制服となった。大戦を経て現代になっても、ごく一部の学校では着用されています」
「国と制度が変わっても、文化の名残は残るのですね」
そういうことです、と満足気に微笑むジェームズに向かって、おれは少し探るような顔で言った。
「ずいぶん、制服に詳しいのですね?」
ぴくっ、とジェームズの指先が動く。だがさすがだ、聖人めいた笑みをまったく崩さず、彼はそうでもないですよ、と言った。おれはああいえ、と焦ったように笑い返す。気を取り直した風を装った。
「失踪前も、同じように中学校でボランティアをされていたんでしたっけ」
静かなうなずき。じっとジェームズを観察したまま、おれはやや上目遣いでにこりと笑う。
「やっぱり、子供がお好きなのですか」
可能な限り害意のなさを装った尋ね方をすると、彼はあっさりうなずいた。
「あの年頃は、かわいいものですね」
「難しい年齢では?」
「まあ、大人の都合で見ればそうでしょう。でも、彼女らも必死なんです」
うっすらと目を細め、口元に笑みを浮かべて彼は椅子に座り直す。もう一度両の指をからめて、やや前のめりな姿勢。どこか熱を宿した目が、じっとおれを見た。
「急激に変化していく肉体と、それに振り回される未熟な精神。信じられない速度で大人に近づいていくのに、まだまだ届かないもどかしさ。どう見ても子供なのに、大人のふりをしたがって、精一杯背伸びしてみせる。大人の手を跳ね除けたがって、だけど自身が無力だと、本心では知っている。成長途上特有の自我の不安定さを、せめて他者からの承認で埋めたがる。生きるのに必死で、なにもかもに一生懸命で──実に素晴らしい」
淡々と、だが一息に続けられた語りに──ぞっ、とした。
笑みの形になった目元。熱っぽく思春期の精神性を語るジェームズは、表面上だけなら慈悲深い男に見える。それが逆に、おれの嫌悪をひどくかきたてた。
だがそれをおくびにも出さず、おれはほっとしたような顔を作る。何度か強い頷きを返した。ジェームズが笑う。
「彼女らと触れ合っていると。年甲斐もなく、青い時代を思い出しますね」
そう笑う男の目尻に、深いしわが刻まれる。おれは薄く歪んでいく目元をこらえ、嫌悪をなんとか押し殺した。気が付けば詰めていた息を吸う。嬉々とした顔をしてみせ、ええわかります、と笑ってみせた。
「無垢だからこそ汚れたがる。自らの素晴らしさに気付かず、それを捨てたがる。アンバランスで、矛盾していて、だからこそ切実」
わざと早口で論調に乗ったおれの言葉に、ええ、と嬉しそうな言葉が返ってくる。
「まさにそうです」
顔を見合わせ、笑い合うおれたち。むらむらとこみ上げる気持ち悪さに耐え、ところで、と話題を切り出す。




