31 夜を越えて
引きずられるようにドアを抜け、冷え切った路上に出る。びゅう、と夕方の風が耳を裂いた。今夜は特に冷え込みそうだ。おれが無事に夜を迎えられれば、の話だが。
(くそ。傷つけたくない、なんて言ってる場合じゃないのか)
できることなら、ヒューイは無傷で済ませたかった。だが、もはやそういうわけにもいくまい。店の中で取り押さえられなかったのは幸運だ。屋外なら、逃げ道はゼロじゃない。
(タイミングを見計らって……必要ならヒューイを人質に)
「まったく……ぶっそうな顔してやがる」
歩きながら、すっ、とヒューイが身を寄せてきた。そして、おれの耳元に小さな声が届いた。
「通信は切ってある」
「え?」
さっきの動作は、通信を入れたのではなく、切った? だが、この状況でなぜ。
混乱が顔に出ていたのだろう。ヒューイは困ったような笑みを浮かべた。
「包囲網に気付かれた。これ以上続けると、興奮したおまえが他者をまきこんで自殺する可能性がある。そう知らせたんだ。〝雪とオレンジ〟だよ」
「さっきの──」
あれは符牒だったのか。ヒューイは続ける。
「いったん俺がなだめて、人気のない場所まで誘導する。そこで説得、確保。そういう作戦に切り替えた」
そんなことを話していいのか。疑問を口にする前に、ヒューイが真摯な目でおれを見つめた。
「シヅキ。今のうちに逃げろ」
信じられない一言に、目を見開く。呆然とした声が漏れた。
「なぜ……」
「おまえが犯人じゃないとわかったからさ」
「どういうことだ」
皮肉げな笑みを浮かべ、ヒューイはおれの隣をゆっくりと歩く。少しずつ、あたりから人気がなくなっていく。
「ジェームズを殺していないと言ったな。そのとおりさ」
どこかの店の裏を通る。ヒューイは何気ないしぐさで、折りたたんである椅子を拝借した。そのまま歩き続ける。
「ジェームズ医師は死んでいない。大量の血痕は、はじめから、彼のものじゃなかったのさ」
「な……っ」
「それどころか。無傷で家を出る彼の目撃情報すら残ってる」
ヒューイがコートを脱ぐ。さみい、と小さくつぶやくと、彼は畳んだ椅子にコートをかぶせた。
「おまえ、昨日のアリバイがどうこう言ってたな」
「あ──ああ」
にやり、と口の端を持ち上げると、旧友は喉の奥で笑った。
「面白いことを教えてやる。判明こそ今朝のことだが──彼が失踪したのはな、ひと月も前のことなんだ」
「なんだと……?」
「そんなことも知らず、必死の間抜け面でおれはやってない、なんて。本当に無実の人間じゃなきゃ、口にできないぜ」
おれの手首が解放された。ふっ、と声を上げ、ヒューイは椅子の脚を折り曲げる。警察用の筋骨格、アートテックとまではいかないが上等なその力で、きしみを上げながら椅子はネジ曲がっていく。
長いコートをかぶせられたそのシルエットは──まるで人のような形をしていた。ヒューイが椅子の〝肩〟を抱く。
「早く行け。これ以上時間稼ぎはできない」
「だが、あんたは──」
いくらおれの無実を信じたからといって、こんな真似をしてヒューイが無事で済むとは思えない。おれの表情を見て、言いたいことを全て察したらしい。ヒューイは笑った。
「もっと身勝手に、頼ってくれればよかったんだ」
「な……」
「あのとき、なんだってしてやるつもりだった。でもおまえは俺を頼らなかった」
いつのことを言っているのかすぐわかった。もぐった布団の中で何度もついた通知アイコン。真っ赤に点滅したヒューイからの通話を、おれは一度も取らなかった。十年間。
「十年前の分だ。それ以上はしてやるつもりはないからな」
「だが、これはいくらなんでも」
今おれが巻き込まれている事態は尋常じゃない。おれを逃がせば、ヒューイもなにか被害を被るかもしれない。それなのに。
人の形を装った椅子を抱き、ヒューイが笑う。
「あとは──そう、パフェの分だ」
なにせいちごが絶品だからな。最後にそうささやくと、ヒューイは裏路地のさびれたビル、そこの扉を開けた。背中を突き飛ばされ、コントラバスケースと転がるように中に倒れ込む。ドアが閉まる。
「この廊下をまっすぐ反対に抜ければ出られる。……下手を打つなよ、シヅキ」
「ヒューイ!」
返答はもうなかった。友人の足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。おれはくちびるを噛み締めた。
このドアを開けて彼を追ったところで、何にもならない。厚意を無駄にするだけだ。身を起こし、あたりを見回す。うらさびれた通路には誰もいない。急がなければ。
(すまない、ヒューイ)
ケースを引いて走り出す。旧友の、ごめんなさいよりありがとうだろ、という声が聞こえた気がした。気のせいだ。
歯を食いしばって廊下を走り、反対側の扉を開ける。人もまばらな街の向こうに、暮れかけた日がゆっくりと落ちていくところだった。
冷え切った夜が来た。真冬の闇の中、おれはコントラバスケースとともに、真っ暗な路地裏に座り込んでいた。
尻からじいん、とした冷えが伝わってくる。整地された地面は氷のように冷たい。コートの調温機能だけではとても凌ぎきれない。なにか敷くものがほしかった。
ぶおお、と生ぬるい風が頬を撫でる。せめて暖を取ろうとエアコンの室外機の前に陣取って、だが焼け石に水というか、流氷に一滴のお湯というか。正直、ほとんど意味はなかった。身体は芯まで冷えている。
どんなに寒くても、いや、寒いからこそ、眠気はやってくる。ぶる、と背を震わせ、二の腕を抱きしめて、押し寄せてくる弱気に耐えた。
いま眠ったら、もう二度と目覚めることができないかもしれない。情けない恐怖を振り払い、自分を奮い立たせる。かたかたと震える指先で、手の甲を何度も叩いた。
(考えろ。考えるんだ)
手がかりはもう、いくらも残っていない。ジェームズの情報を、なんとかたぐりよせるしかなかった。
風呂場に多量の血の痕跡。ジェームズ本人のものではない。家の中に争った形跡はない。玄関にはきちんと鍵がかかっている。デバイスはテーブルに置かれたまま。新しい花壇の用意が途中だった。
性嗜好は第二次性徴期の少女。制服にこだわりがある。児童買春に関わっている可能性。ハルカとは〝個人的な〟知り合いだった。
震える手を開く。かさ、と一枚のメモが音を立てた。
あの、突き飛ばされた一瞬。ヒューイはおれの手のひらに、このメモを握らせた。ジェームズの事件について、ヒューイが知る限りの全てが書いてあった。
ジェームズの家に残されたものと消えたものを思い浮かべながら、おれはひたすら彼の心理を推察する。
ジェームズはきちんと家を掃除し、鍵をかけた一方で、作りかけの花壇を放置し、買春の事実を隠すこともせず失踪した。彼になにがあった? その心境は? おれがジェームズ・ライトならどうする。
(いつもと同じだ。観察しろ、考えろ、そして演じろ)
おれなら、おれが、ジェームズだったなら。この状況で家を出て、なにを思った。どう行動する。どこへ行く。考えるんだ。
情報があまりにも少ない中、シミュレートと思考を延々と繰り返す。震える指で手の甲を叩きながら、ぶつぶつとつぶやきが漏れ続ける。
美しく整備された理想都市に、星の光はほとんど届かなかった。白い息がまっすぐ夜へとのぼっていく。おれはコントラバスケースと、その中のハルカの死体と寄り添いながら、ジェームズの思考をずっとなぞっていた。




