27-01 青い壁、車のモビール
「……」
自然と、視線が下に落ちる。顎に手をあて、考え込んだ。
感じるのはかすかな違和感。
たしかにこれは──なにかがおかしい。
おれはガラサの主張を、真正面からきちんと聞いたことはない。いつも途中でうんざりして切ってしまう。それでも、活動初期から彼に反発していたからだろうか。おれの胸の奥で、なにかが違う、というささやきが聞こえていた。
ガラサの主張の、核の部分。おれがもっとも奴を忌み嫌った原因。においとか気配とかそういう、うまく言葉にできない、奴の根底に横たわるなにか。それが──ごっそり削げ落ちている気がした。
違和感の正体を求め、おれは自分の心に問いかける。なぜおれは、あんなにもガラサを拒絶したいと思ったのか。
ディスプレイに立ち並ぶガラサの情報を見つめ、考えた。情報を追いかけ、数々のガラサの言葉を最後まで読み、音声を聞いて、感じたものを整理する。
しばらく考えて、思い至った。おれがガラサを拒んだ理由。それは、奴が人間の愛や聖性を、心の底から信じているからだ。どんな人の内側にも美しいものは存在していて、芽吹くときをじっと待っているのだと、本心で思っているのがわかるからだ。
それがいかにひどい思い上がりで、浅はかな思い込みなのか、おれは痛いほど知っている。人の心の底に、美しいものなど眠ってはいないのだ。おれはかつて、それを心底実感した。
(……人の底に眠る、美しいものだと?)
ちらちらと脳裏をよぎるのは、青い壁と車のモビール。ぼやけた影。罪の記憶。
さっきの薬で、封じ込めたはずの過去が刺激されたらしい。おれは眉間を何度か揉むと、ぎゅうと目を閉じ、ふーっ、と長い息を吐いた。
本当の愛がわからない、愛された記憶もない。
だからこそ愛が欲しくて、似たような人の気持ちがよくわかった。彼らを奮い立たせるため、勇気と希望と救いを与えるため、おれは虚構の愛を撒いてきた。
だけどそれはある日突然崩れ去ってしまった。なにもかもが壊れた。信じてきたものも、やってきたことも、周りの環境も、人も、世界のすべてが。
息子を死なせてしまって、無関係の人を傷つけてしまって、世界中から袋叩きにされて。おれが今まで信じてきたものはなんだったのだろう。おれがばらまくのはいつだって嘘の愛で、なにもかも偽物だった、そんなことはわかっていたつもりだった。けれど。
きっと化けの皮が剥がれたのだ。おれの本性はこんな人間だった。なによりも絶望したのは世間にでも社会にでもない。おぞましいほど醜くて汚い、身勝手な、どうしようもないおれ自身にだった。
それでも諦めきれなかった。誰かを救いたかった。本当の愛が欲しかった。おれの内側を照らすひとつの灯りが、美しいものが欲しかった。
デバイスの通知を全部切って、部屋に閉じこもって、布団をかぶる日々が過ぎた。みじめで、みじめで、みじめで、自分のことが心底嫌になった。絶望と罪悪感と虚無感でいっぱいになって、世界中から叩きつけられる豪雨のような悪意に打ち据えられながら、ひとつのことをずっと願っていた。
美しいことがしたい。
素晴らしいことが、尊いことがしたかった。
誰かを助けたかった、なにかを救いたかった。
心の底から思った。
頼むから、なんでもいい、誰でもいいから、助けてくれと言ってくれ。救ってくれとすがってくれ。
そしたらおれは、どんなことだってする。心を差し出しても、身を投げ出してもいい、なにを捧げてもいい。今度こそ尊いことをする。美しいものを選ぶから。
ぶつぶつとつぶやき続けるおれの耳に、不意に荒々しい音が届いた。複数の人が押し入ってくる気配。
ドアの隙間から顔を出すと、義両親の姿が見えた。彼らは、おれなど見えていないかのように廊下を走って、迷うことなく息子の部屋に駆け込んだ。
たちまち聞こえる叫び声、金切り声、激しい物音となにかの倒れる音。やめるんだ、こんなことをしてもあの子は戻らない、お願いだから早まらないで、やめてちょうだい、頼む、落ち着いて。
なにが起こっているのか、うっすらと予感を感じつつも、現実を認識できない。もやがかかったような頭で、ふらふらと廊下に歩み出た。義両親が妻を部屋から連れ出したところだった。
彼らはおれを無視したまま、やせ細った身体を抱えて廊下を進んでいく。少し離れて、呆然とついていくだけのおれ。ぺたぺたと裸足がフローリングを鳴らす。振り返ることすらせず、三人は玄関の向こうに消えていった。
いま思えば、息子を失い、おれの行為が炎上して、昼夜問わず責め立てられ、あらゆる過去をほじくり返されて、リディアが先に潰れるのも当然のことだった。ほとんど抜け殻のようになり、幻覚や幻聴に悩まされ、ただでさえ細かった体重が激減していたのが、今ならわかる。
それでも彼女はまだ、社会との繋がりを求めていた。世間が謳う愛を信じていた。だからこそ、耐えられなかったのだろう。義両親が駆けつけたのは、オンラインの遺書にたまたま気付いたからだったのだ。
玄関の扉が閉まる残響音、それきりなにも聞こえなくなる。ものすごくぼんやりした頭と視界のまま、ひとりになって、どうしたらいいかわからなくなって、呆けたまま廊下を引き返した。
子供部屋のドアが半開きになっていた。リツキが大きくなったら、ひとりで使わせるはずの部屋だった。何歳から鍵をつけるか、リディアと話し合ったばかりだった。
中を覗く。
床にはロープの束と、見たことのない薬のシートがあった。そろそろと上を見上げる。天井では車のモビールが揺れている。
その手前に──輪を作った長いロープが、丸くぶら下がっていた。
(ああ、──……)
現実が、ようやくおれに降ってきた。
どうしたって言葉にできない、ひどく暗くて冷たいものが、ゆっくりとおれを打ちのめしていく。かろうじておれを支えていた、きれいなものが壊れていく。
その過程のすべてをありありと感じ取って、なにもかもが終わっていくのをじっと見つめながら──もうだめだ、と思った。
薄く開いたドアの隙間、息子の部屋に入ることができない。丸いロープにピントを合わせることができない。おれはばかみたいに目を見開き、逃避のようにモビールを見つめて、思った。
誰かを助けたい?
なにかを救いたい?
おれはなにを、ばかみたいなことを願っていたのだろう。
真っ青な壁の前に吊られたモビール。輪になったロープが、きらきらしたモビールの前で、ひどくぼやけて揺れている。
いま、はっきりわかった。
美しいことなんて二度とできない。
おれは社会に、信じた愛に、尽くした理想に裏切られ、そしておれ自身も、大切な人たちを裏切ったのだ。
(なにもかも、もう──だめなんだ)
どうしたって拭いきれない罪と諦念。
失ったのだという実感。
あの虚しさは今も変わらず、おれのうちに埋めがたい空洞を空けている。




