23-03 カーチェイス
むき出しのハルカを抱えて、人目のあるところは歩けない。
しかたなく裏道を選び、こそこそと走り回る。痩せた少女とはいえ人間だ、走るうちに息が上がる。腕が痛くなってくる。おれは建物の隙間に滑り込むと、息を整えて彼女を抱き直した。そのとき。
(──ん?)
ちら、と胸元に見えたものに、おれは目を疑った。左右を見回し、そっとハルカを地に下ろす。襟の合わせを開いた。
「……傷が……」
白かったはずの胸元に、大きくほつれた赤い線が走っていた。『魂』の摘出痕だ。
霊安室の様子を思い出す。雑然と散らかった部屋、ずれた器具置きには、たしかに摘出に使える道具があった。
霊安室にあった火葬許可証は本名名義だった。その死亡処理の一環として、『魂』を摘出しようとしたのだろうか?
(強奪者たちは、ハルカ・シノサキを〝正しく〟死亡させようとしている……?)
彼らは用済みになったら死体を〝潰す〟予定だと言っていた。だが、どうせ処分するにしたって、できることなら後ろ暗くない方法が良い、ということだろうか。
だが、それにしてはずいぶんと傷跡が雑だ。明らかに専門家の手によるものではない。時間がなかったのか、それとも、専門家に任せられない事情があったのか。どちらにしても不愉快だった。
荒々しい傷のつけられた身体を見下ろす。目が細くなる。だが、なんにせよ、こんなところでじっとしている訳にはいかない。事故を聞きつけた野次馬が増えるのも時間の問題だった。
移動するはいいが、どこへ、どうやって行くのかを考えなければ。このままハルカを抱いてフォシン研究所方面へ行くのは無理がある。なにか〝入れ物〟を探す必要があった。その上で、公共交通機関を使うしかない。マヒナに会うのはそれからだ。
おれは何度か腕をストレッチする。ハルカを抱き上げ、人通りを確認してから路地に出る。
ふたたび移動を開始しようとしたとき、背後から荒っぽい足音が近付くのを聞いた。──まずい。
隠れるか、走るか。迷ったのは一瞬だった。走り出そう、と決めて足に力を込め、だが一歩遅かったらしい。
小さな破裂音。ほぼ同時に、眼鏡が弾き飛ばされる。ちりっ、と頬が焼けるような感触。勢いよく地を滑る眼鏡を視界の端に留め、おれはゆっくりと振り返った。
薄く煙の立ち上る銃を構えているのは、予想通りの姿だ。鷹の目の男と、もう一人。見回せば、背後から別の男が現れる。前後から三人に挟まれた形になり、おれは悠長に腕を休めた自分を心底悔いた。
「手間のかかる男だ。さあ、奪ったものを返してもらおう」
淡々とした低い声。感情の乗らない瞳。おれは吊り上がった目を睨み返し、ハルカをぎゅっと抱き直す。
「返したところで、おれが無事な保証がない」
「……無駄な殺しはしない」
その声にはなぜか、ごくわずか、感情のようなものがにじんでいた。おれはかすかに戸惑う。しかし、今はそれどころではない。いぶかしみつつ返す。
「なら、知っていることを洗い浚い喋れば、見逃してくれるのか」
「悪いが局面が変わった。奪ったものを、無傷で返せ。そいつの状態と、貴様の出方によっては、生存の目はまだ残っている」
無傷でと言われても、ハルカの胸には今、大きな傷が走っている。嘘で時間をかせぐか、それとも。
しかし、男は即座にトリガーに指をかけた。悪いが、と執念めいた声。
「貴様の口八丁には、もううんざりだ。どんな言葉も、証拠がなければ嘘とみなす」
どうやら、車の下敷きにされたことが、相当堪えたらしい。おれはため息をつく。渋々、絞り出すように言った。
「……無傷は無理だ」
「──なんだと? 中を開いたのか」
「いや、たしかに傷はあるが、おれがやったんじゃない」
途端、残りの二人から慌てた声が飛んできた。
「なんて馬鹿な真似を……」
「そんな理屈が通じると思うか!」
鷹の目以外の大げさな叫びに、ちら、とあたりを見回す。おかしい。彼らの顔に浮かぶのは、明らかな動揺だった。ハルカの『魂』を抜いたのは、こいつらではなかったのか? だったら、誰が。
おれの戸惑いをよそに、仕方ない、と低い声がした。前へと向き直る。鷹の目が、おれを鋭く射抜いていた。銃口がまっすぐにおれの中心線を通り、額のあたりでぴたりと止まる。冷や汗が伝うのを感じながら、おれは薄く笑った。
「生存の目は?」
「残念だ」
「そうか」
ハルカをきつく抱きしめる。どんなに絶望的でも、最後まで諦めるわけにはいかない。なにか、なんでもいい、奴らの気を逸らせれば。視線を走らせ左右を見回すおれに、鷹の目が重苦しい息を吐いた。
「……なぜ、そいつを守る」
「そんなのは当たり前だ」
よってたかって大人に利用される、息子と同い年の女の子だ。誰も彼女を、悼むことすらしていない。そんな子供を、おれが守らないでどうする。
「愚かなことを。確かに、それの使い道はまだあるかもしれない。だが、自分が死んでは意味がないだろう」
それ、使い道、といった単語に憤りが再燃する。本当にこいつらは、子供をなんだと思っているのか。きつく睨みつけるおれに、男は理解不能だ、と顔をしかめた。
と、背後から舌打ちが飛んできた。侮蔑じみた声が投げつけられる。
「お前、ガラサの死体を盾にして、自分の要求を通すつもりか? そんなことをしたって、いずれ火葬は滅ぶ文化──」
「おい!」
さっ、と血の気が落ちる気配。おれは耳を疑う。
(待て──今、なんと言った?)
鷹の目の慌てたような静止が耳を刺して、しかしおれは、奴の声がほとんど耳に入らなかった。だって。
ガラサの死体。今、そう言わなかったか。
(まさか、そんな、馬鹿な──)
おれは呆然と、腕の中の死体を見下ろす。青白く痩せた美しい少女。後ろ暗い陰謀の気配も、汚い大人の思惑も、なにも感じさせない、安らかな死に顔の──
(こんな子供が、ガラサだと?)
そんな訳はない。だって、
だって──ガラサはまだ生きているじゃないか。
愕然として口をつぐむおれを見て、鷹の目が、探るように細くなる。その口がなにかを呼びかけようとしたそのとき、耳の奥で通知音が鳴り響いた。びく、と肩が跳ねる。
右端から滑り込んでくる通話者のID。
それはさっき見たばかりの、火葬依頼人のものだった。絶望的な状況の中、冷えた電子音が淡々と脳裏に響いていた。