22-02 十回忌
リディアの関わる財務省は、環資省とつながりが強い。国家予算は資源やエネルギーによるところが多いからだ。
一方で、財務省は厚生省とはあまり良い関係ではない。財務省は医療福祉が財源を圧迫していると主張しているが、その厚生省はといえば、公共の福祉が行き届かないのは財務省のせいだと訴えているのだ。
いい関係でないのはこの二省だけではない。環資省・財務省組と、防衛省の関係もなかなかに劣悪だ。有機資源や予算を回してほしい防衛省と、隙あらば防衛費を削りたがっている財務省たち。
それぞれの大臣の出身だの、派閥だの、あれやこれやの事情が入り乱れ、内政はそうとう入り組んだ地図を見せているらしい。ひとたび金と名誉が絡めば、人間同士の関係などすぐに乱れる。組織となればさらに、だ。
愛だ福祉だとは名ばかりで、それを運用する連中は、さぞ腹黒いのだろう。リディアはそういうものを、おれと別れてから、たくさん見てきたのかもしれない。
きっとなにかがあったのだ。疲労だとか諦念だとかそういうものが、彼女を揺らがせてしまったのかもしれない。
だからこそ、きみは正しい、いつも立派だと、誰かに言ってほしかった。あるいは、きみは立派だ、といういつもの逃げ口上を言わせて、おれに八つ当たりしたかったか。
そこまで考えて、おれは小さく息を吐いた。沈黙を続けるリディアのために、呼びかける。
「なにかあったのか。また、迷っているのか」
言うや否や、予想通りの硬い声が投げつけられた。
『そういう言い方しないで。あなたっていつもそう』
「きみだって、いつもそうだろう」
なだめ半分で口にすると、彼女はぐっと言葉を呑む。それきり、ふっつりと黙り込んでしまった。おれはため息を押し殺す。
リディアの癖のようなもの。
迷っている間に、決断する機会を失ってしまうことだ。
大きなものから小さなものまで、彼女はなかなか決断できない人だった。頭がいいから結論を出すのは早いのに、それを決断へと変えるまでが遅いのだ。
結婚していたころ、セール品をしょっちゅう買い逃しては、もう少し決断力が欲しいわね、とぼやいていた。それは確かに、幸福だった頃の記憶だった。
おれはかすかに息を吸うと、言う。
「きみは立派だよ。いつだって正しいことをする。だから──もう少し、自分の決断に、自信を持ってもいいんじゃないのか」
本心というよりは、リディアのために放った言葉だった。
おれは彼女の私生活を知らない。仕事の内容もわからない。だからこういう、どうとでも取れる慰めしか口にできない。リディアもそれは承知しているのだろう。長い沈黙の末、小さなため息が聞こえてきた。
『あなたって本当、やりづらいったらないわ』
「すまない」
『八つ当たりくらい素直にさせてよ。私、ばかみたい』
「きみがもう少し馬鹿だったら、素直に当たってくれたのかな」
『やめてよ。わざとらしい隙を嬉々として叩くほど、愚かにはなれないわ』
「やっぱり、きみは立派だ」
今度は本心だった。だがリディアはああもう、とやけのような声で言う。
「わかったわよ。でも──ありがとう」
ああ、と返事をしようとして、しかし、続きの言葉に拍子抜けしてしまった。
『私……もう少しだけ、考えてみるわ』
「あ、ああ」
結局またその結論か、と思ったが。余計なことはもう言わない方がいい。本格的な八つ当たりがはじまってしまいそうだ。おれは短い相槌を返すに留めた。
それからリツキの命日について、今度はもう少しだけ穏やかに話し合うと、おれたちは通話を切った。
今度こそナビを設定し、ハルカに着せかけたコートを回収する。ばさりと羽織りなおし、シートに身をもたせかけた。
なんとなくポケットに手を入れると、ぴり、と鋭いものが指に触れて驚く。慌てて取り出すと、エルビンのケースだった。てのひらの中で、硬く鋭い直方体が淡く光っている。どうやら無意識でポケットに入れてしまったのだろう。
なんでもかんでも手と一緒にポケットに突っ込むのは、昔からたびたびやってしまう癖だった。そのため、リディアは洗濯前、いつもポケットを確認していた。このご時世に手で洗濯をより分けるなんて、しょうがないわね。そう嗜めるやさしい笑顔。あのやわらかい微笑みは、もう戻ってくることはない。
吐息まじりで、ポケットにケースを戻した。
おれを見つめる、淡い緑の瞳。あの瞳も、昔はたしか蜂蜜色だった気がする。当時流行ったのだ。
ぼんやりと、リディアと出会った頃を思い出した。
嘘でもいいから愛が欲しい。どうしても得られないものを希い、孤独にあえぐ人がいる。虚構はときに、その絶望を救う慰めになる。彼らに希望と勇気を与えるため、若いおれは舞台の上に立った。
リディアに惹かれたのも、同じ理由がはじまりだった。学生だったリディアは、蜂蜜色の目をきらめかせ、こう語った。
──心の中なんて誰にも見えない。だからこそ、私は愛を行動と捉えるの。
好き嫌いに関わらず、誰もに優しく、うんと親切にする。たとえはじめは嘘だとしても、愛ある行動を続ければ、それは一種の真実となる。人を救うことができる。ときに嘘は、尊いものにもなり得るはずだ、と。
意気投合したおれとリディアは、虚構が見せる愛について語り合い、ときに議論を交わし、ときに同意で笑いあい、いつまでも話し続けた。そしていつしか、深い仲になっていた。彼女はおれを、おれの理想を、いつも肯定してくれた。
(だが──おれは理想を裏切った)
それも、もっともひどい形で。だからこそ、リディアはおれから離れていってしまったのだろう。
一人分の食事が並ぶテーブルの向こう、おれを見つめて細くなる、淡い緑の瞳を思い出す。十年前とはもう、あの目の色も、気配も、その奥に宿るものも、なにもかもが違っている。それでも、だからこそ、おれは──
(……ん?)
そのとき。視界の隅を、ちらりとなにかがよぎった。ミラーを覗き込む。やや渋滞気味の車列、その数台後ろに、見覚えのある黒いもの。
ここからでもわかる。冬の大気に吹かれてなびくのは、細く長いアンテナだった。その根っこに見えるのは白い車体。フテラだ。
「……くそっ」
目元を覆い、うめき声とともにため息をつく。面倒ごとはまだ、終わる気配を見せないようだ。
おれは静かに自動運転を切る。そして、フォシン研究所へのナビを無視して、違う道へと入っていった。




