20-02 脱出
迷ったおれはサンプルを手に取り、息を整える。窓辺に歩み寄った。下を見ると、ちょうどトビー青年が植え込みの前でうなだれていた。まだここにいたのか。
窓の真下、青年の側には庇が長く張り出している。それはかすかに傾斜して、目立ったふちはないようだった。
(なるほど)
振り返って金庫を見る。大仰な警報機が付着した、小ぶりな金属箱。これなら。
おれは金庫を床に置いた。いくらでもある棚の一つに手をかけ、力を込める。ずん、と重量が一気に腕にかかる。強化された筋肉が悲鳴を上げる。それでも力を込め続ける。ようやく軋みを上げながら棚が傾いた。
できた床との隙間に、おれは金庫を蹴り込んだ。手を離す。
ゴッ、と鈍い音がした。面白いように金庫がひしゃげる。歪んだ扉から中身が転がりだし、瞬間、けたたましい警報音が鳴りだした。
数秒だけ、ふたたび息を整える。潰れた金庫のそばに、指輪ケースくらいの金属箱が転がっていた。角が九十度に立っていて、素材はおそらくエルビンだ。ダイヤモンドの八倍硬いという新素材が、うっすら淡く光っている。
(こっちのほうが、よっぽど〝極秘〟っぽいな)
それだけ思うと、おれはまだ荒い息のままサンプルを手に取った。耳鳴りがしそうなほどの警報が鳴り響いている。これなら、追手は必ず寄ってくるだろう。
少しして、予想通り、扉の外から聞き覚えのある怒鳴り声がした。鷹の目の男だ。あと二人もいる。十二分に引きつけた。そろそろ頃合いだ。
おれは腕を振りかぶり、勢いよく窓を叩き割ろうとした。
バアン、と耳が割れるほど大きな音。だが──窓はびりびりと震えるばかりで、まったく割れる気配がない。強化ガラスにしたってとんでもない強度だ。
「──嘘だろ……!?」
慌てて背後を振り返る。鈍い音とともに、ドアを塞いだ棚がかすかに揺れていた。破られるのも時間の問題だ。
おれは焦って、低めのラックで窓を殴りつけた。割れない。くそ。棚をふたつ動かしたあたりで、腕の筋肉に限界がきたのか。よりによってこんな時に。
轟音とともにドアが揺れ始める。畜生、と視線を走らせる。横たわったハルカの死体、その少し離れたところで、エルビンのケースがきらりと光った。
(あ──)
おれはとっさにケースを拾う。ぴんと立った角の部分を窓ガラスに押し当て、滑らせた。耳に痛い音とともに、ガラスに線が入る。
(これで駄目なら、諦めどきだ……!)
ラックを再び振り上げる。思い切り殴りつける。耳に鋭い破壊音。
今度こそ、窓ガラスが割れ落ちた。ぱらぱらという音とともに、庇の上を破片がきらきら滑っていく。同時に、背後で棚の倒れる派手な音。
おれは慌ててハルカを抱き上げると、窓枠に足をかけ、ためらうことなく四階の外へ飛び出した。酩酊にも似た浮遊感がおれを包んだ。
落下とともにドッ、と身体に重力がかかる。きつくハルカを抱きしめる。衝撃を逃すように庇の上を転がり、また落下。
再び一瞬の浮遊感。直後、身体に衝撃と痛みが走った。ばきばき、と枝の折れる音。それきり、静かになる。数秒の静寂。
植え込みの上に落ちたおれは、ゆっくりと身を起こした。十年ぶりに活躍した強化骨格があちこち軋む。幸いにして、折れた部分はなさそうだった。
(芸は身を助く、とはこういうことか……)
スタントをやっていて良かった。こんな経験は二度とごめんだが。
頬が切れたらしい、つっ、と血がしたたる感触。ぐいと親指で頬を拭うと、おれは腕の中を見下ろした。
ハルカは静かにそこにいた。ああ、と彼女の肌や髪からガラス片を払いのける。傷はない。なにも知らない、安らかな死に顔がここにあった。
「よかった……ごめんな」
安堵のあまり、ぎゅう、とハルカを抱きしめる。さらさらした髪に鼻先をうずめる。今度は助けられた、そう思った。胸のうちが切ないような、充足したような、うまく言えない不思議な感覚で満ちていた。
ふーっ、と長く息を吐き、顔を上げる。すると、地面にへたりこんでいるトビー青年と目があった。目をまん丸にして、腰を抜かしているようだ。
おれは小さく笑う。ハルカを抱きかかえ、立ち上がった。
「悪い。デバイスを間違えた」
白々しくもそう言うと、青年の手首を取る。彼は呆然とされるがままだった。デバイスを取り、代わりに新薬サンプルを渡してやる。
え、え、とサンプルとおれを交互に見る彼をよそに、おれは駐めっぱなしの製薬会社の車を見つめた。少しだけ考え込む。
手首につけた他人のデバイスを、ふむ、と見つめる。そしておれは、いつまでも呆けている彼に歩み寄ると、指紋と虹彩を勝手に拝借し、デバイスのロックをすべて解除した。
彼のデバイスに加え、自分のそれも身につける。両手首にデバイスを巻きつけたおれは、当たり前のように青年の車の鍵を開けた。
可能な限り丁寧な手付きで、助手席にハルカを座らせる。シートベルトをつけてやる。
「じゃあ──薬の駄賃だ、いろいろと拝借する」
それだけを告げると、おれは運転席に身を滑らせ、ためらうことなく車を発進させた。バックミラーの中で、取り残された青年が、少しずつ小さくなっていった。




