17-02 過ぎ去りしもの
気が付けば、目の前の男を殴り飛ばしていた。
顔の骨が折れるほどの重傷だったと後で聞いたが、そのときは夢中だった。
二度、三度と殴りつけ、高そうなデバイスをもぎとって、院内地図を見る。おれはうめきながら足首を掴んでくるケイジ・ニューマンを蹴り飛ばすと、真っ白い病棟を走った。
汚染遺体の保管室は厳重にロックされていた。だが幸か不幸か、少し前におれはスタントのため、全身の骨格と筋肉を交換していた。
椅子だの植木だのでドアを破壊して、蹴破って──そこからの記憶は判然としない。
あとで聞いた話だが、おれはスタッフ数人に怪我を負わせ、保管庫の扉を蹴り壊し、リツキの遺体を強奪したらしい。
かすかに覚えているのは、冷え切った灰色の死体袋を抱えて、ひたすら走っていたことくらいだ。
どうやって来たのかはわからない。ただ、気が付けばおれは、二度と帰りたくなかったはずの場所へ来ていた。祖父の火葬場だった。
祖父はなにも聞かなかった。ちらと息子の遺体を見やると、黙っておれに椅子を勧めた。旧式のコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
一滴ずつドリップされるしずくを見つめながら、祖父はずっと黙っていた。
「……炉を貸してほしい」
空を見つめてつぶやくおれに、祖父はたった一言、そうか、と答えた。
コーヒーを飲んだかどうかは覚えていない。気が付けば炉の準備は整っていた。
開け放った炉の前で、息子を収める決心がつかず、立ち尽くす。
焼いてしまえば、もう二度と顔を見ることができない。冷えた身体に触れることも叶わない。
(それでも──)
そこまで考えたときだった。外がにわかに騒がしくなった。
聞いたこともない祖父の怒鳴り声。ものが倒れる音、複数人の足音たち。なんだ、と思った瞬間、扉が跳ね開けられて、警官たちがなだれこんできた。
息子を抱きしめ、立ちすくむおれの目の前で、祖父が倒れ込む。警官に組み伏せられながら、圧迫にかすれた声で「その子を助けてやれ」と祖父はうめいた。
奪われそうになる息子のなきがら。目の前で馬乗りにされる祖父。どちらを助けるか、おれは迷った。迷って、結局、すべてを失った。
おれは息子を焼いてやることも、祖父を守ることもできなかった。遺体は処理され、祖父は公務執行妨害で逮捕された。もちろん、おれ自身も。
助演役者として、それなりに名が売れていたことが不幸だった。
おれの〝非人道的な〟行いはセンセーショナルに取り上げられ、大炎上。
昼も夜もなく鳴り響く通知音、無記名の誹謗中傷、物理的精神的に投げつけられる批判行為、信じていた人々から叩きつけられる荒々しい拒絶の言葉。
気が付けば事故そのものの報道は片隅へ追いやられ、オーバーもアンダーも、おれへの批難一色で染まっていた。
地獄のような日々だった。人の醜さ、狡猾さ、えげつなさ、容赦のなさ、正義という言葉の持つ中毒性、この社会が愛と叫ぶものの正体。すべてを、骨身にしみて思い知らされた。
裁判の結果は、執行猶予付きの有罪判決だった。おれは自身の身体が強化されていることを知りながら、多くの人間に暴力をふるったということで責任を強く問われた。どんな罪に問われても構わなかった。
けれど最終的に、祖父の懇願によって、おれは実刑を免れた。
腰と手に枷をつけられた祖父は、法廷でまっすぐに顔を上げてこう言った。
「私のしたことはわかっている。どんな咎も受けよう。だが、あの子は傷付いている。……傷付いているんだ」
判決を受け、おれはリディアとも離婚。晴れて独り身の前科者となり、周囲から白い目で見られながら、火葬場で隠遁生活を送ることとなる。
そういう──つまらない話だ。




