16 鷹の目の男
心臓がどくっ、どくっ、とやかましくなる。冷たい汗がこめかみを伝う。
押し当てられた硬い感触、それが穏やかなものでないことくらい、流石におれでもわかった。
「ずいぶん待たされた」
低い声。おれは書類を見下ろしたまま、そうかい、と答える。必死に頭を働かせ、ごくりと唾を飲み下した。
「心臓外科医が足りないと聞いて呼ばれたのだが、ずいぶんな挨拶──」
「シヅキ・J・ロウ」
「……っ!」
まさか、そんな。さっきの手配ログか? それにしては早すぎる。
混乱するおれをよそに、背後の声は低く語りかけた。
「どんな役でも演じる実力派俳優」
「……しがない助演役者だ」
からからに乾いた喉で答える。後ろから、いや、と聞こえた。淡々と、原稿を読み上げるような声。
「決して天才肌ではないが、綿密な下調べと取材で役を作り込む努力型。当たり役の新米刑事を演じたときは、実際の警察官に三ヶ月付きっきりで役作りをした。最後の作品は激しいアクションが売りの続編映画。骨格と筋肉を総交換して、ノースタントを貫いた」
「プロフィールではそうなってるな」
「だが、それが世に出ることはなかった。十年前のことだ」
「よく調べてある」
さっきのログがどうとかいう話ではない。こいつは完全に、おれという人物を認識して話している。
侵入者があったことまでは悟られてもいい。だが、なぜおれだとわかった。
「気付かれない自信はあったんだがな」
「俺が貴様を見間違えるはずはない」
「ははっ、ファンなのか?」
「──そうだ」
ただの軽口に、返ってきたのはまるで迷いのない即答だった。
妙にはっきりした断言に、指先がぴくりと動く。背中の感触がより強く押し当てられた。抵抗の意はない。かすかに首を左右にふる。
おれはそろそろと両手を上げ、
「……今日はよくよく、昔のファンに出会う日だ」
ゆっくりと、肩越しに振り返った。手放した書類がひらりと床を滑り、背後の靴にあたって止まる。
霊安室の白っぽいライトに照らされた、長身の襲撃者──さっき入口でぶつかった男だった。
鷹のような目、その眦が鋭く吊り上がっている。胸板は厚く、体格が良い。蹴り飛ばして逃げるのは骨だろう。
おれを見下ろす鷹の目が、うっすらと細くなる。眼差しに込められているのは間違いなく、拭いきれない侮蔑だった。
「そんな目で見られるのは久しぶりだ」
「だろうな。火葬場での隠遁生活は楽しかったか?」
「本当に詳しい」
暗に十年間世間の目から逃げ回っていたことを指摘され、苦い感情と同時に焦りがこみ上げる。
こいつはおれを知っている。なにを、どこまで、どれくらいだ。それによって、こちらの対処も変わってくる。おれはわざと挑発的に笑った。
「他にはなにを知ってる? スリーサイズか、デバイスの暗証番号か」
「もっと重要なことなら」
「へえ。どんなことだ」
男は表情ひとつ変えないまま、低く言った。
「『虚構はときに救いになる』」
「──っ!」
動揺が肩を揺らす。その言葉を公の場で口にしたのは、一度だけだったからだ。
十年前の事件で、役者としてのおれの情報はほとんどが消去されている。
デビュー直後、雑誌の片隅に載ったっきりのインタビュー。そんなもの、今となっては見つけることも叶わないだろう。
(それを知っているということは──)
この男が〝本物〟であるかないかに関わらず、事態はそうとう厄介なことになっている、と見ていい。少なくとも、強奪者たちがおれ個人をはっきりと認識しているのは確かだった。
鋭利な眼差しに向かって、乾いた笑いを投げかける。
「はは、あんな青い時代を覚えていてくれるとは」
「……」
男が沈黙した。
おれはゆっくりと顔を巡らせ、前へと視線を戻す。
背に押し当てられた感触ばかりが鮮やかで、心臓が痛いほど高く鳴っていた。
気取られぬようあちこち盗み見て、なにか使えそうなものを探す。
しかしぐっ、とより強く硬いものを押し付けられ、おれはびくんと背をつっぱらせた。背後で男の低い声。
「ご立派な信念だった」
「……それはどうも」
乾いた喉で、心のこもらない返答を投げる。
かつて語ったインタビューが、自然と思い起こされた。
もともと、内面を語るのは苦手な方だ。役者が前に出すぎて良いことはないとも知っている。
だからカメラの前で本心を吐露したのは、あの一度だけだった。まだ青い年頃だったのも手伝って、話を引き出すのがうまいインタビュアーに乗せられてしまったのだ。
彼はおれの生い立ちを聞き出し、祖父との確執を探り当てた。そして、なぜ役者になったのですか、と尋ねてきた。
ご家業を継ぎたくなかったからですか、と聞かれ、おれは無言で首を横に振った。
今でも覚えている。語ったのは祖父と、愛についてだ。
祖父は嘘のつけない人だった。それどころか、本当のことすらうまく言えない人だった。
だけどおれは嘘をついてほしかった。偽りでも構わない、ふりだけでもいいから騙してほしかった。愛されていると思いたかった。どんな嘘でもいいから信じたかった。
それでも、手に入らないものはある。
長ずるにつれ、おれは美しい嘘や優しい演技に心を奪われるようになった。虚構はときに救いになる。それすら手に入らない人は、いくらでもいるのだから。
おれは世間の唱える愛を信じていたし、欲していた。求めても求めても届かない苦しさを、痛いほど知っていた。だからこそ、孤独な人の心をなぐさめるため、ひとりぼっちだと感じる人を奮い立たせるため、おれはカメラの前に立った。
たとえ虚構だったとしても、物語には、その中で生きる人の姿には、人を導く力がある。
おれが泣いたり笑ったり憤ったりしてみせることで、孤独な人に勇気を与えることができるなら。
嘘でもいいから愛がほしい、そう希う人に、光をもたらすことができるなら。
おれは舞台の上で、どんな姿でも演じてみせる。
手に入らないものを求めるのはやめて、おれと同じような人を救うんだと。本当に、心から、そう信じていた。
(……昔の話だ)
気が付けばうつむいていた。懐かしい言葉、青く光る信念、若かりし記憶。
たった一度語っただけの理想でも、おれはそれを信じてきた。誰にも口にしなくても、それだけを行動理念として動いてきた。
背後から、断罪のような声。
「だが、貴様はその信念を投げ捨てた」
「……そうだ」
十年前、すべてが壊れた。夢も理想も、抱いた信念も、愛したものも、すべて。




