54 選択
長い、長い沈黙があった。炎の音、風の耳鳴り、ハルカを吊ったワイヤーが揺れる、ぎちっ、という高い音。
ケイジ・ニューマンは、とても長いあいだ俯いていた。グレーの頭頂部、撫でつけた髪が風にさらわれて乱れている。肩を落とし、うなだれたさまを見て、おれは彼へと歩み寄ろうとした。だが。
「──っ!?」
鋭い発砲音。頬をちりっ、とした痛みがかすめる。
ケイジは──顔を上げ、鬼気迫る形相でおれを睨みあげていた。絶望と拒絶がにじんだ目が、ぎろりと上目遣いになる。
「違う。ちがう」
「ケイジ」
「呼ぶな! 知ったふうな、まやかしの、おまえは、さっきから私を惑わせて──」
ぱん、とケイジの手元が弾ける。だがその銃口は全くさだまっておらず、見当違いの方向に金属を散らす音がするばかりだった。
おれは銃口の位置を見定めて、ゆっくりと歩を進める。ケイジが叫ぶ。
「おまえの言葉は嘘ばかりだ。私は信じない。あんなもの、虚言が仕事の下賤な人間らしい、空虚な、中身のない」
「だったら、なぜ取り乱す」
「うるさい。おまえの戯言なんて、私は信じない」
「ならどうして、そんな顔をする」
「黙れ、私に──近寄るな」
ふら、と後ろに下がるケイジ。ひときわ強い風が吹き、その背中に、どん、とハルカの身体がぶつかった。ケイジがよろめき、振り返って。その横顔が、みるみる絶望的な色に染まっていく。銃を抜く仕草。
「ハルカ──おまえさえ、いなければ」
「待て」
自暴自棄な叫びに、慌てて床を蹴った。
銃声。ケイジの銃から、ぱっ、と光が散る。
「あ」
ほぼゼロ距離で撃たれた銃弾は、それることなくハルカのワイヤーを撃ち抜いた。
長く垂れ下がったワイヤーがふっ、と夜空に放たれ、一瞬の静止ののち──がくん、とハルカの身体が落下する。
(くそ……っ)
気が付けば飛び出していた。ほとんどなにも考えず、抱きとめようと跳躍する。身を投げ出し、思い切り手を伸ばしたとき──ハルカの手前で立ちすくんでいた、ケイジの身体にぶつかった。
どっ、という強い衝撃。視界の端、ふらついたケイジの、服の合わせから、なにかきらりとしたものが飛び出した。
あれは。
(エルビンの──)
時間の流れが遅くなる。空間の濃度が一気に上がり、息が詰まって、すべての動きが、鮮明に感じられる。
スローモーションのように転がりだすケース。ケイジの眼球がそれを追いかけ、手が伸びるさま。青白いフレアに照らされて、なめらかに輝く金属が回転する。
「あ──」
永遠とも思える一瞬だった。
視界の両端に、ふたつのものが浮いている。ハルカの身体と、その『魂』。どちらもは選べない。わかっている。それなら、おれは。
今までのあらゆることが脳裏をめぐった。
祖父の背中、リツキの死に顔、リディアの涙、ヒューイの苦笑、ミックの言葉、ケイジの叫び、そして、
(おれは、ハルカを──)
『……守ってあげたいな。ずっと』
幻聴が聞こえた。
まぼろしの中で、青と金の美しい瞳が、まっすぐにおれを捉えていた。
視界の端、落ちていくハルカのまぶたは閉じている、それでも。彼女がおれを見ている。理由のない確信が、おれのいちばん底を突き動かした。
宙を飛んだ不安定な姿勢のまま、手を伸ばして、動いた。銃を握り直し、引き金を引く。破裂音。ケースに伸びたケイジの手から、ぱっ、と赤いものが飛び散る。
ガン、と音がした。おれの踵が、手すりを蹴った音だった。血を流すケイジの手、その先に飛びつく。かつん、と音を立ててケースが床を滑る。
壁にぶつかり、跳ね返るそれに、先に食らいついたのはケイジだった。奪い合いになる。激しいもみあい。濡れた金属床の上でもつれ合うおれたちの向こうで、ハルカが落下した音が遠くに聞こえた。罪悪感に胸が痛んだ。
乗り上げたみぞおちを思い切り蹴り上げられ、咳き込む。世界の上下が反転し、馬乗りになったケイジが、おれの手を振りほどこうとする。
銃身でケイジを殴りつけようとして、腕で受け止められる。口の端を殴られ、顔が勝手に横を向く。げほ、と吐いた息に血が混じり、ケイジがポケットにケースをねじ込んだのが見えた。
「この、しぶとい、ゴミが……っ!」
「く──」
食らいつこうとするおれの視界の中央に、黒光りする銃口がひらめく。とっさに払い除けた先、腹の辺りで──ものすごい衝撃が弾け飛んだ。
「が……っ!」
焼け付くような感覚。一瞬の時差で、かっ、と尋常じゃない痛みが訪れた。もだえながら腹を押さえる。ぬるついた感触。喉の奥から勝手にうめきがこぼれおち、おれは床の上でもがく。
「は、はあっ、はっ……わた、私は」
飛び散った血しぶきを浴び、見開いた目、開ききった瞳孔、ケイジの顔は汚れている。
呆然と手元を見下ろした彼に向かって、血まみれの手を伸ばした。ケイジが、はっとしておれを見る。その眼差しにみるみる激情が宿って、彼は、
「どこまでも、しぶとい、男だ!」
「ぐ……ッ!」
おれの腹を、思い切り踏みつけた。がぼ、と嫌な咳が出る。のたうつおれを蹴りつけて、ケイジが吐き捨てた。
「このゴミ虫めが、ハルカのところへ行け」
蹴り転がされ、爆破で欠けた手すりの隙間に追いやられる。かろうじて伸ばした手でケイジの足を防ごうとするも、指が震えてうまくいかない。
「息子と同じ死に方をさせてやる」
叫び声。腹に重い衝撃。
床が消え、一瞬の浮遊感ののち、重力がおれを捕まえる。落下する。
(くそ──っ)
がっ、とかろうじてポールを掴んだ。ぐん、と強い力がかかり、全身が下に引っ張られる。
片手だけでぶら下がり、なんとか耐える。吹き付ける雪。濡れたポール。頭上から、吐き捨てるような叫び声。
「おまえの言葉は全てまやかしだ」
掴んだ指を蹴られる。踏まれ、にじられ、死ね、死ね、と怨嗟が降ってくる。
「信じない。私は信じない。人を誑かす──悪魔め!」
(だめ、だ)
耐えきれず、手が離れそうになる。ずる、と指がすべっていく、そのとき。
下の方で、足音が聞こえた。人の気配。怒鳴りあう声。その言葉の端に警察、という単語を聞き取って、
「ちっ──降ろせ!」
蹴りつけられる痛みがぴたりと止んだ。
大きくなるヘリのローター音。どさ、となにかが垂れ落ちる音。ケイジの足音。出せ、という指示の声が、ローター音にかき消された。
ヘリの音が、しだいに遠ざかっていく。助かったのか、と思考がよぎって、しかし。
(いや──駄目だな……)
ぱたっ、ぱたっ、と爪先から血が垂れ落ちていく。すうっ、と身体が冷たくなる。腹から下の感覚がない。掴んだ手がずるっ、と滑って、力がうまく入らない。
朦朧とした意識で、指先の力がゆっくりと抜けていくのを感じて、おれは静かに目を閉じた。落下。




