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【完結】さよなら火葬場  作者: Ru
── 最終章 ──

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53-02 愛の正体

「……そうか」


 この男は、なぜわからないのだろう。


 おまえの言っていることは矛盾している。

 あらゆる愛を受け取ってきたと言いながら、それを信じないという。

 すべて満たされてきたと言いながら、他人はわかっていないと言う。


 おまえは、きっと、ずっと──傷付いてきたのに。

 不思議で、そして、哀れだった。


「ケイジ・ニューマン」

 そっと呼びかける。ゆるゆると顔を上げる男に向かって、

「美しいものはあるんだ」


 ケイジが、信じられないものを見るような目でおれを見た。かすかにケイジの頭がゆらめき、ゆっくりと否定する仕草。逃げるように震える声。


「おまえ──おまえも、蒙昧な大衆のひとりだ。愚かで、夢見がちで、浅はかな考えの眠りびとだ。誰も私を理解しない。それでも、私は彼らのために──」

「違うよ」


 指先を持ち上げて、まっすぐにケイジを指した。その心臓がある辺りを。


「ずっと、そこにあったんだ」

 おまえはただ──それに気付いていないだけだよ。


 呼びかけに、ケイジが顔を歪める。やめろ、という叫びがおれを振り払おうとする。


「信じられなかったんだな」

「くだらない──なんて陳腐な、愚か者の戯言、わかったようなことを言うな」


 懸命な否定、それが繰り返されればされるほど、わかってくることがある。見えてくるものがある。


 この男にもあったのだ。欲したものも、信じたかったものも、手に入らなかったものも、嘘でもいいからと希ったものも、きっとあったはずなのに。本当のことなんて、今、彼はとっくに気付いているはずなのに。


「私の生涯には、なにひとつ不自由などなかった。素晴らしいものを渡され続ける、恵まれた、光あるものだった」

「そうか」

「あらゆるものが与えられ、私はそれを受け取り続けてきた。この上なく満たされてきたのだ、おまえに──憐れまれるいわれなど、ない」


 だからその目を今すぐやめろ、と。振り絞るような言葉に、静まり返ったおれの底、水面のようなものが静かに反応する。見覚えのある兆候。


(もう──演技はいいのに)


 この男はなにもかも嘘ばかりだ。

 満たされているのも、不自由なんてなかったと言うのも、恵まれてきたと思うのも、ぜんぶ演技だ。

 なにもかも言い聞かせているだけ。そうしなければ、生きられなかっただけだ。

 かわいそうに、と思った。口を開く。


「それならば、なぜ苦しむ。なぜ満たされない」

「知ったようなことを──」


 ゆっくりと首を振った。泣いている小さな子供に言い聞かせるようにささやく。


「おれにだってわかるんだ。あんたは決して愚かじゃない。だから、とっくにわかっていたんだろう?」

「な、にを」


 ふ、と小さく息を吐く。冷えた夜気を吸い込む。


「だって。あんたが受け取らされてきたものは全て、」


 おれの続きを悟ったのだろう。ケイジがやめろ、黙れ、と引きつった声を上げる。


 ここで黙ってやることができれば、この男は、あと少しでも幸福だったろうか。そんなことはない。彼はすでに破綻している。自分でそれを気付いている。だったら、おれのすることは一つだ。


 なあ、ケイジ・ニューマン。おまえがなぜ、苦しかったのか教えてやるよ。

 今まであんたが信じてきたものは、もらってきたと言い聞かせてきたものは、押し付けられてきたものは全て、



「ひとつも──愛なんかじゃなかったじゃないか」



 その瞬間。ひくっ、とケイジの喉が鳴った。

 夜の中、目の前の瞳孔が一瞬で散大し、ちがう、と弱々しい声が投げて返される。おれは胸の痛みに目元を歪め、言った。


「じゃあおまえは、与えられて嬉しかったか? 愛されて幸せだったか?」

「っ……」

「答えられないのなら。やっぱり、それは愛じゃない」

「違う──ちがう、私は、もらったんだ」


 あらゆる素晴らしいものを、と繰り返すケイジ。だが、その瞳は動揺に揺れている。弱々しい抗いを続けている。


 彼がなにを怖がっているのか、はっきりとわかった。ケイジは恐れている。おれの言葉を認めてしまえば、なにひとつ、自分の中にきれいなものがなくなってしまうのではないか、と。


(そうじゃないのに)

 ゆっくりと歩み寄る。ひとつずつ近付く足音を、ケイジが呆然と見つめ返す。震える声。


「私、私は、……幸福だった」

「そう思わないと、生きていられなかったんだな」

「違う! 本当に」

「なら、もう一つ尋ねるよ」


 な、という形に開かれたくちびる。


「おまえに与えられてきたものが今、なにもかも、いっさい失われたとして。おまえはもう一度それらを手に入れるため、全てを賭して奮迅できるか? 心から欲しいと願えるか?」

「っ──それ、は、もちろん」

「本当に?」


 声を投げかけ、観察する。目を凝らし、耳を澄ませ、目の前の存在のまるごと全てを、否定せずに感じ取る。かすかな仕草、聞こえる音、ありのままを受け入れて、自分の中の大切なところを無防備に開く。


 すると──どこからか、かすかなささやきが聞こえてきた。


 目の前で震えている男の、ひるんだような瞳から、考えていることがはっきり伝わってくる。音のない言葉になって聞こえてくる。

 その声は、たよりなく、そして、弱々しかった。耳を澄ませる。


『これ以上、欲しくもないものを受け取りたくなかったんだ』


(……そうか)

 目の前で言葉を失い、怯えている男を見る。すべてを与えられてきた、満たされてきたと彼は語った、だけど。彼はいま、嬉しかったとも、幸せだったとも、言うことはできなかったのだ。雄弁な瞳が語る。


『もう欲しくない──それだけを言えなくて、言いたくなくて、ずっとこらえてきた』


 歯を食いしばり、頼りなさげな目で、懸命におれを睨んでいるケイジの姿。たった一つの嘘にすがって、彼は両の足で、懸命に立っている。それが哀れで、目を細めた。いっそ悲痛なささやきが、重なり合って響いてくる。


『なぜ愛に届かない』

『愛はそこにあるはずなんだ』

『すぐ近くに、星のように、ずっと見えているはずなんだ』

『それなのに──』


「……どうしても、届かなかったんだな」

「なにを──言ってる」


 おれの言葉に、ケイジがかすかに首を振る。理解できない、したくない、そう叫ぶ瞳がまばたいて、絶望的な色でおれを見る。声は止まない。


『愛ある人になれなかった』

『愛したい、愛したい愛したい、愛さねばならない、だけど』

『だけど本当はもう、──欲しくなんてなかったのに』


(……ああ、そうだな)

 欲しくもないものを、これは愛だと押し付けられて、笑って受け取らなきゃいけないのは──つらいよな。


 いま、わかった。いつも上がっている口角、穏やかに下がった目尻、やわらかい目元、汗をぬぐう癖。



〝押しに弱そうな風貌〟



 これが──彼のすべてを表していたのだろう。




 

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