53-01 愛の正体
「なに……?」
「だって、おまえは、愛してなんていないだろう。妻も、愛人も、その娘も、そして──自分自身も」
「は──」
最後の一言に、ケイジがぴくりと眉をゆがめる。一瞬の強い驚き、それが消えたあと、反射じみた否定の感情が、顔の上へと一気に現れる。その推移のすべてを見て取って、確信した。
(この男は、やっぱり──壊滅的に嘘が下手だ)
おれが見破るまでもない。彼は気付いている。彼が自分自身についた、つたなすぎる嘘のことを。
おれは一歩前へ歩み出ると、確信を胸に、はっきりと口を開いた。
「とっくにわかっているんだろう。おまえは誰も愛せない。娘すら愛せない。そんな自分から目を逸らして、ここまで逃げ出してきたんだ」
「急に、なにを言っているんだ」
当たり前のように強がる口調は、しかし虚勢だ。その裏には押し込められ、封じ込められた、ひそかな恐れとためらいが隠れている。おれには──わかる。
「人を愛せず、たったひとりの娘さえも愛せず、それを認めることもできなくて。自分と向き合うこともせず、黙って、逃げた」
「なにを、わかったようなことを──」
かすかな戸惑いに、ケイジの視線がごくわずか、揺らぎはじめた。おそらくは今まで一度も、見破られたことも、気配を察せられたことすらなかったのだろう。しかし。
おれの確信に満ちた口調に、彼の中で驚きと戸惑いから発した感情と、迷いがじわじわと傾いていくのがわかる。気付いてはいけないものの蓋が、少しずつ、少しずつずれていくのが、手にとるように感じられる。
一歩ずつ歩み寄りながら、おれは淡々と呼びかけた。
「愛とは到達不能な理想点だ、手の届かない星なのだと叫ぶことで、おまえは、必死で自分をごまかしている」
「て、適当をぬかすな、私は──」
私は、なんだ。そう問いかけると、ケイジは続きを口にすることなく、ひくっ、と喉を詰まらせた。さらに近付く。
「どうしたって人を愛せない自分を認められず、それが嫌で、つらくて、どうしようもなかった」
「そうやって、くだらない妄想と同情で、私の気を引くつもりか」
「なぜそんなことを?」
「だから、他の人物を守るために──」
「なぜ? 今、おれは、あんたと話をしているのに」
心底わからない。だから問うた。それなのに、おれの言葉に、ケイジは得体の知れないものを見る目でおれを見る。
なぜわからないのだろうと思う。どうして疑うのだろうと。おれは今、目の前にいるこの人のことだけを感じて、この人のためだけに話そうと思った。本当のことを話そうと。
ケイジがかすかにうろたえる。
「お──おまえの言っていることは、ちっともわからない」
「それは嘘だ」
「っ……」
おまえは、わかっているはずだ。
だっておまえの声が、仕草が、表情が、わからないほど小さな情報のすべてが、おれに教えてくる。おまえはなにもかもわかっていて、それでも、見ないふりをして、すべてに耐えてきたのだと。
「あるはずのものが手に入らず、せめて嘘とごまかしで自分の目をくらませて、蓋をして。長いあいだずっと、ずっと逃げてきた」
「またそれか。わ……私は違う、そんなものじゃない」
「そうだよな。そんなものには、なりたくなかったんだよな」
「ち、違う! 人の話を聞け」
否定なんてしなくていいのに。でも、この男はきっと、そうしないと駄目だったのだ。弱いままでいたくはなかったのだ。哀れなままでいたくはなかったのだ。
それでも──本当のことを知らなければ、前には進めない。
だからおれは、言った。彼が一番言われたくない、隠したかった、それを避けるためだけに逃げ出した、言葉を。
「おまえのためだけに、本当のことを話すよ。
おまえは、誰のことも愛せなかった──弱くて、哀れな人間だ」
その言葉を聞いた瞬間、ケイジはびくっ、と肩をこわばらせた。顔色が青ざめ、鋭い言葉が、ほとんど反射のように飛び出す。
「──っ……違う! 私は!」
私はちがう、とケイジは繰り返した。ささやかな虚勢を張ったところでもう遅い、と思う。だっておまえは、違うと繰り返しているだけで、なにがどう違うかを、語ることができないでいる。
傾ききった天秤の向こう、感情の蓋はとっくにずれきって、中に封じたものが見えている。ありありとそれを感じる。おれにだってわかるんだ、それがケイジ自身なら、きっともう、とっくに。
見開いた目、大きくなった瞳孔が、逃げるように空をさまよう。違う、おまえの言葉は嘘ばかりだ、そう何度も口走り、かすかに首を振る仕草。
「私は誰よりも、愛の意味を知っている」
「本当に?」
「理想の価値をわかっている」
「本当にか?」
「なにも知らないのは他の──私じゃない、すべての人間だ」
中途半端にかかげた両手、半開きになったままのくちびるが、小刻みに震えている。私じゃない、とつぶやく声は小さかった。必死の抵抗だった。
「わからないのは大衆のほうだ。愛は心だと、本当だと、必ずどこかにあるなどと、ありもしない虚構を信じ込む。美しいだけの妄想に逃げ込んで、現実に目を向けやしない。そんな愚かな大衆を、私が、私の星が、導いてやるべきだったのだ」
そうか、と静かに息を吐く。おれは、ただ問いかけた。
「愛なんて、すべて嘘だと?」
「そうだ。あんなものはただ美しいだけのまやかしだ。存在しないおとぎ話だ。だが、そのまやかしは──力だけは持っている」
だからうまく使ってやるべきだったんだ、と言うケイジの声は、無理に強く発声したような響きに満ちて、心許なく震えていた。おれはかすかに眉をひそめる。
「本当に、そんなことを思っているのか? 美しいものは、どこにも存在しないと?」
「──そうだ」
どうしてだろう。とても──静かだった。
彼が一言話すたび、おれの心の内側で、なにかがひとつずつ沈殿していくのがわかった。澱のようにおれを濁らせていた黒いものが、少しずつ、少しずつ下へと降りていって、胸のうちが不思議と澄んでいく。透明な景色が帰ってくる。
ケイジの目がゆっくりと、恐れるようにおれを見た。私だけだ、と彼はつぶやく。
「私だけは本当のことをわかっている。だが、大衆は私を理解しなかった。それは仕方ない。美しい幻想にすがるのは、ひどく心地がいいから」
ゆるゆると首を振るケイジ。その視線が下へと落ちて、彼は小さな生き物が抗うように、言った。
「だから私は、彼らの目を覚まさせるのは諦めた。あんな連中、眠ったままでいい。代わりに──」
「〝導きの星〟を置いた、と?」
「そうだ──可能な限り美しい、魅力的な、ただの嘘を」




