52 覚醒
ケイジは、長いあいだ黙っていた。長い、長い静けさののち、彼はゆっくり口を開く。
「……なにもかも、ただの憶測に過ぎない。証拠はないんだ。ひとつも」
「そうだな」
無表情のケイジに向かって、言い放つ。
「おまえはいつもそうだ。他人の前にエサを吊るし、それとなく誘導し、行動を捻じ曲げ、思い通りに操縦する。自分だけは高みの見物で、決して手を汚さない」
「ずいぶんな言いざまだね」
「ふたりの女性を死に追いやったこともそう、ハルカを利用したこともそう。おまえは愛の素晴らしさを唱えてこそいるが、なにも信用していない。ただ安全な場所から、すべてを、眺めているだけじゃないか」
じわじわとこみ上げる、言葉にできない感情。目の間の男はなにもしない。なにも助けない。ただそれとなく他人を操縦して、思いのままに動かし、笑っているだけだ。
「なにを語ろうと、どんな美しいお題目を唱えようと、おまえ、おまえは──」
言い募る声が詰まった。喉の奥が震えそうになる。
ケイジが首を傾げた。おれがこんなに心を乱していることが、心底、不思議そうな仕草だった。
「……っ」
なぜわからないんだ。胸の底で叫んだ。きつく握った手、ぶるぶるとくちびるが震えて、下を向いて、おれは。
「──娘だったんだぞ!?」
「だからだよ」
即座の返答だった。
「な──」
信じられない思いで顔を上げるおれの前で、ケイジ・ニューマンは、つうっ、と一筋の涙を流した。
顔をゆがめ、哀痛な声音で、ケイジが震える声を出す。
「ハルカは私の娘だ。私にとって、たったひとりの存在だ」
「だったら──」
「だからこそ。私は自らが犠牲となって、愛のため、理想のため、もっとも尊いものを捧げたのだよ」
──ああハルカ、すまなかった。
涙ながらに語るケイジの、すぐ後ろで。縛られ、吊り下げられたハルカのなきがらが、風にあおられて大きく揺れている。吹き付ける雪が彼女の長い髪を、少しずつ白く染めていく。
ぽたぽたと顎から雫をしたたらせ、泣いているケイジを見て、おれは地を這うように低い声が、勝手に口から出るのを感じた。
「……そのクソみたいな演技を、今すぐ引っ込めろ」
ヘドが出そうになる。続く言葉が怒りで潰れた。
見破るまでもない。おれのセンサーは痛いほど反応を示している。この男は、本当に、あまりにも演技が下手だ。
こいつの言葉はなにもかもすべて嘘、演技、詭弁ばかり。なにが虚構の愛だ、届かない理想だ、真実の星だ。
(こいつは──違う)
俺には愛がわからないと言いながら、それでも必死で自分と向き合ってきたミックとは違う。
愛は行動なんだと言い聞かせ、せめて嘘を本当にしようともがいてきたリディアとも違う。
筆舌に尽くしがたいほど醜いものを見せつけられ、それでも愛を信じようと身を捧げたハルカとも違う。
(こいつは、ただの……大嘘吐きだ)
ぎりっ、と食いしばった歯、握り込んだ爪がてのひらを傷付け、皮膚がやぶれるひりついた感触。
射殺すようにケイジを睨む。背後で揺れるハルカの死体。実の娘を、そのなきがらを、あんな風に冒涜して、彼は平気で泣いている。悲しむふりを続けている。
「おまえはただの嘘吐きだ。誰のことも、愛してなんてこなかった」
絞り出すおれの言葉に、ケイジはゆっくりと目を細める。抑揚のない、淡々とした声が流れ出す。
「そんなことはない。私はすべてを愛し、そして──すべてに愛されてきたのだよ」
だが、その言葉を聞いた、瞬間。
まったく唐突に──ぴくん、とおれのどこかが反応した。
(──なんだ?)
ほとんど反射じみた反応が起こる。一瞬で目を凝らした。耳を澄ませて、肌の表面を感じ取る。全身の感覚を一気に開く。
今、おれはなにを感じた。なにがおかしい。なにに引っかかった。全身全霊で神経を張り詰めさせたまま、おれはそろりと尋ねた。
「──本当に?」
「なにを言うかと思えば。本当だとも。私は愛に満たされてきた」
(……これは)
半開きになったくちびるが、わからないほどごくわずかに、わななくさま。視線のかすかな揺らぎ。言葉を出す直前、ほんの一瞬、詰まったような喉の音。目の前の指先が、よく見るとこわばっているのがわかる。
ゆっくりと手を動かした。指先で、手の甲をそっと叩く。ひとつ叩くごとに、さっきまでの感情が波のように引いていくのが、はっきりとわかった。一度、二度、三度。
急速に意識が引き絞られ、集中と没頭、世界が一気に遠ざかる。音が消え、シンとした空間がやってくる。驚くほど頭が澄み渡り、おれの内側が水を打ったように静まり返る。
ケイジの一挙手一投足が、驚くほど鮮明に感じられた。その胸の底で鳴る鼓動すらわかると思った。ケイジの言葉、その奥にひそむもの、彼自身すら気付かない、ひどくかすかなためらいさえも、すべて。
気が付けば口が開いて、言葉を発していた。
「なにを──言ってるんだ?」




