51 明らかになるもの
折れそうな心を、必死にささえようとする。鼓動はちっとも収まらない。浅くなった息は戻らない。おれは震えるくちびるを動かし、かろうじて顔を上げた。
「……なぜ、こんなことをする」
ケイジはおれの問いかけに、心底不思議そうな顔をした。当たり前のように返される。
「それはもちろん。私の信ずる愛のためだよ」
「永遠に辿り着けない理想に向かって、すべての人が邁進し続けるべき、という?」
そうとも、と笑みを浮かべケイジは言う。深くうなずき、彼は銃を持った両手を広げ、微笑んだ。
「世の中はね。ゼロか百か、白か黒かで割り切れるものではないし、そうあるべきではないのだよ」
滔々とした声が語る。
「たしかに、尊い理想はあるだろう。素晴らしい幻影も、美しい夢想もあるだろう。だがそれらは虚構の存在、フィクションの中にしかないおとぎ話だ。だがね」
慈悲めいた目がおれをとらえ、わかっているだろう、と呼びかける。ケイジの声。
「それでも虚構は、人を導く力を持っている」
「それは──」
喉の奥で、くく、と声を上げるケイジ。穏やかな目が弧を描き、口の端が持ち上がった。
「絶対に理想に届かないなら、始めから何もしないのか? 目指したところで手に入らないなら、最初から諦めるのか? そんなことは間違っている」
おれの声が、だからって、とかろうじて振り絞った震えの形を作る。ケイジがうっとりと笑う。
「私はたしかに、理想の実現を、愛の体現を、微塵も信じてなどいない。だが、その価値と作用ならば、心の底から信じている。虚構であり実現不可能である美しいもののため、すべての人が安心してそれを目指し続けられる世の中のため。私は、できる全てを行っているに過ぎないのだよ」
「だからって……そのために、ハルカ・シノサキを──自分の娘を、犠牲にしたっていうのか」
ガラサが現れた、一年半前。彼女はまだ十四歳だった。いちばん危うい年頃だった。
「なぜそんな子供の、それも自分の娘を、ガラサに担ぎ上げたりしたんだ」
彼女は──父親が誰かすら、なにひとつ知らなかったのに。
しかしケイジは、きょとん、とした目をした。
「なぜって? 決まっている」
その理由を求め、おれはケイジを見据えた。彼の口元が動いて、半笑いの声が漏れる。
「〝ちょうど良かったから〟だよ」
「な──」
「ハルカはそこらの大人よりよほど聡明で、賢かった。その上、未熟な自我に振り回され、はちきれそうな自己顕示欲をこじらせていた。
誰が自分を生かすかわからない、いつ誰かの気まぐれで生活が崩壊するかわからない。そんな不安をごまかすため、彼女は自分の生存はすべて社会のおかげだと、奉仕の愛のためだと言い聞かせた。その尊さを強烈に信じ抜くことで、必死に自我を保っていた。
ハルカの内側には行き場のないエネルギーと鬱屈がうずまいており、発散する手段を欲していた」
利害の一致だよ、とケイジは言う。
「一方。私は私で、〝偶像〟となってくれる人物を探していた。強く、気高く、カリスマに満ちた、強靭で美しく真摯な存在を求めていた。その人物は奉仕の愛を心から信じ、そのために邁進し、そしてすべてを捨てられる人でなければならない。
ハルカはまさに──その全てを体現していた。私たちは互いを求めあったのだよ」
握りしめた手が震えた。ふざけるな、と低い声が喉の奥から絞り出される。
「おまえはただ、ハルカを利用しただけだ」
「ふむ」
「彼女が生きるために必死で信じた理想をいいように使って、その青さと未熟につけこんで──ハルカの理想を冒涜し、踏みにじり、捻じ曲げたんだ」
ふう、とケイジがため息をつく。
「またそれか。洗脳だなんだと馬鹿馬鹿しい。私はなにもしていない。ただ、彼女の信念のすぐ隣に──彼女の理想を尊重しつつ、必ずその目に留まるよう、できるだけ近くを選んで──ひとつずつ、星を置いていっただけだ」
「……抗不安薬の瓶のように、か?」
ぴくっ、とケイジがまぶたを持ち上げる。おれはきっと目元に力を込め、背筋を伸ばした。まっすぐにケイジを見据える。かすかに掠れたケイジの声。
「……薬瓶が、どうかしたかな」
「五年前の話だよ。マリアは、運転前に頭痛薬を飲んだつもりだった。だが、隣の瓶と間違えてしまった。そういうことになっているな」
「だからなんだ。君の言いたいことは、私にはさっぱりわからない」
「じゃあはっきり言おう。薬瓶をすり替えたのは──おまえだ」
「……証拠は?」
「残念ながら、ない。そもそも、自宅の薬箱の中身を勝手に入れ替えたからって、犯罪にはならないしな」
気が付けば、ケイジの頬から、さっきまでの笑みが引っ込みはじめている。少しずつ表情をなくしていくケイジに向かって、おれは押し殺した声で告げた。
「ただ、おれがうまくやったなと思うのは、『抗不安薬の瓶』とすり替えたことだよ」
得意げだった表情は抜け落ち、彼は無言でおれを見据えている。
「最愛の夫が、よそで子供まで作っていた。あまりの事態に、両親を呼び寄せ、相談しようとした。マリアの精神状態は推して知るべしだ。不安を取り除くつもりだったにしろ、自らを害する意図があったにしろ、抗不安薬なら服薬してもおかしくない。あの瓶を選んだのは、おまえなりの保険だったんだろうな。まあ、その保険は発動することすらなかったわけだが」
「……」
黙り込んでいるケイジ。おれは薄く目元を歪め、顔をしかめて、そして、とつぶやいた。
「マリアの死後。おまえはミチルに〝最後の仕上げ〟をしたんだよ」
「私は、なにもしていない。彼女は自殺した。勝手に飛び降りたんだ」
「そうだな、おまえは何も〝して〟はいないさ。ただ──報道でマリアの死を知ったミチルに、こう告げたんだろう?
『ハルカの存在がマリアにばれた。彼女はそのせいで自殺した』、と」
「っ……!」
「ミチルは──それを聞いて、罪悪感のあまり衝動的に、マリアと同じ場所で飛び降りたんだ」
これが五年前、おまえのやった全てだよ。
告げた吐息の最後はそれきり夜に散って、激しい風の音と、頭上で燃える炎の気配だけが残った。沈黙。




