天使の羽
じわじわじわ。じわじわ。カンカン照りの太陽が、地面を焦がしてしまったかのようなセミの声。そんな夏の喧騒も忘れるくらい、小さな姉妹はテレビに夢中だった。映っているのは二人の好きなアニメ。主人公の魔法少女が悪の手先を倒すという内容だ。
「やった、やっつけた」
美樹はハッとして口を押さえた。慌てて横を見ると、嬉しそうに体をゆらゆら揺らしながら、目だけはしっかりと画面を見つめる優子がいた。少しほっとして、美樹は視線を元に戻す。エンディングを見ながらも美樹の胸のどこかでは、先ほどのことが僅かに引っかかっていた。
熱中して思わず独り言なんて、美樹くらいの年ごろの子どもには良くあることだ。実際、美樹はこれまでに何度もこれを経験していた。今までは、なにかを口走ったことにさえ気づかない美樹だったが、今日はなんとなく恥ずかしくなった。それで突然、妹に聞かれてはいやしないか、と心配になったのだ。普段は何とも思わないのに、なぜ今日は気恥ずかしく感じたのだろう、などと筋の通った疑問を八歳になったばかりの子どもが抱くはずもなく、美樹はよく分からない少しの違和感に首を傾げた。
「終わった?じゃあ二人とも準備して、行くわよ」
母が二人に声をかける。今日は親子三人で買い物に出掛ける予定だったのだ。美樹は胸に感じたしこりなどすっかり忘れて、勢いよく立ち上がった。そして、競争だよと優子に言って、てきぱきと身支度をし始めた。
眩むような日差しが三人を焼く。優子はむず痒くてたまらなくなって、麦わら帽子を脱いで頭をかきむしる。こら、と母がそれを優子に被せる。日射病、と言ったところで優子にはそれがなんなのか分からない。だから帽子は、被らなければいけないもの、として優子を無意味に苦しめる。被っていた方が余計に蒸し暑いんだ、優子はそう言う代わりにしかめっ面で黙った。どうせ言ったって、駄目なものは駄目、と逆に叱られる。不機嫌そうな態度をとることが、四歳児にできる精一杯の反抗だった。
大人が歩けば十分とかからない距離でも、優子にとってはちょっとした遠足だ。それをこうして歩いているのには、少々わけがある。今日、本来は美樹と母だけで出掛けるはずだった。しかし、優子が留守番を嫌がったのだ。優子だって、父が家にいてくれれば留守番など朝飯前だ。だが、父は日曜なのに仕事に出かけてしまった。母は『もうすぐ五歳になるお姉さんだから、怖くないよ』と言ったが、それでも優子は一人が嫌だと泣いたのだった。だから仕方なく優子を連れて行くことになったのだが、優子はまだ自転車に乗れない。あまり買い物をする予定ではないので優子を後ろに乗せると無駄に大変だ、それにいつまでもわがままばかりの優子に少しは我慢を覚えさせたい、そんな母の思惑で優子は歩いているのだ。
「ほら、もうつくよ」
アスファルトと太陽のオーブンですっかり調理されそうな優子。そんな事情もつゆ知らず、母が無神経に声をかける。優子は急に、アイスクリームやジュースやお菓子のことで頭がいっぱいになった。あと少し。目的地のショッピングモールが、優子にはとても大きく見えた。
美樹は内心、少し緊張していた。急に元気になった優子を尻目にエスカレーターに足をかけると、足がふわふわして自分がしっかり立てているかと不安になる。
「あ、美樹ちゃんだ!」
急にものすごく大きな声が聞こえて、美樹は飛び上がりそうになる。声の方を見るとクラスメイトのカホと、その母親らしき人がエスカレーターの反対側にいた。カホはとても元気で素直な女の子だ。本人には全く悪気はないのだが、今のようにいきなり大声を出しては美樹をしばしば驚かせた。カホは話したいといった風でうずうずしているが、互いの母親が会釈を交わしたところで美樹は上へ、カホは下へとすれ違う。美樹はカホのことが少しだけ苦手だったのだが、今日はお陰で緊張がどこかへ行ってしまった。
目的地のコーナーに着く。今日は母と、美樹の初めてのブラジャーを買いにきたのだ。今まではパッドの入ったキャミソールを使っていた美樹だったが、ここ最近、急に胸が膨らみだしたのでブラジャーが必要になった。
「すみません」
母が手早く二つのブラジャーを手に取って、店員に声をかける。母の手には美樹の身長と同じくらいの身長目安が書かれたものと、少し大きい身長目安が書かれたものがあった。
「美樹がもっと大きくなったらちゃんとお店で測るけど、今はとりあえず、これ。多分、身長通りで大丈夫だと思うけど、一応大きいのも試しに着てみよう」
試着室で母がそう言った。母がつけているのとは形も色も違う、なんだか不格好でかわいくない、白いブラジャー。少し残念なような、安心したような、そんな不思議な気持ちに美樹はなった。母に教えてもらって鏡の前でホックをつける。難しそうと覚悟していたが、やってみると案外すんなりとできて美樹は思わずにやけてしまった。
「ねーねー、おなかすいた。アイス食べたい」
優子がカーテンの隙間からひょっこり顔を出す。カーテンを開けるな、と優子を注意しつつ、母はスマートフォンを見る。確かにもうすぐ正午だ。
「大丈夫、下、先行ってて」
美樹は母にそう言った。母は、美樹、優子、まだ試着していないブラジャー、と視線を移す。それから最後に美樹をもう一度見て、心配そうにこう尋ねた。
「一人でできる?」
美樹は間髪入れずにもちろん、と答えた。少しの間、眉間にしわを寄せてどこかを睨んだ母だったが、
「美樹、ありがとう」
と言って、にっこり笑った。それから母は美樹に五千円札を渡し、サイズの合う方を四つと伝え、一階のフードコートへ優子の手を引いて行った。
美樹は残ったブラジャーに手を伸ばす。輪っかに手を入れて、それで手を後ろに回して、ホックを__。おかしい。ついさっきは簡単につけられたのに、今は全然だ。美樹は鏡を見ながら、あれ、あれ、と声を漏らす。急に一人でいることが怖ろしくなった。苦戦しながら美樹はふと、カホの顔を思い出していた。美樹のクラスメイトでは、まだ誰もブラジャーをしていない。もし、もしもカホが気づいたら、きっと大きな声で言うんだろうな。途端に、美樹はブラジャーが嫌になってきた。美樹は手を止めて、鏡に写った自分をぼーっと見つめた。ほんの少し前まではほとんど男子と変わらないくらいだったのに、今は一目で分かるほど胸が膨らんでいる。鏡の中の美樹の胸は、あてがわれているだけのブラジャーによって、さらに大きく見えた。
外から、人の声がする。美樹は我に返って再びホックと戦い始めた。やっぱり、お母さんにいてもらった方が良かったな。美樹は泣きそうになりながら、そう思った。そうして涙がこぼれそうになったとき、美樹は両手を離した。再び、美樹は鏡を見た。真っ赤な眼の自分が、一人でもブラをつけられる自分が、そこに立っていた。美樹は自分が誇らしくなって、自分がほとんど上裸だということも忘れてカーテンを開けそうになる。慌ててブラを外し、すっかり自分の服に着替えた美樹は、最後にもう一度だけ鏡を見た。もう一人の自分は、ピンク色の眼で確かに笑っていた。
風呂から上がり、髪を乾かした美樹がリビングに入ってくる。ソファーでは父と母と優子がテレビを見ていた。母は、美樹に気づくと風呂に入るために立ち上がった。美樹はさっきまで母が座っていた、父と優子の間に座る。父はにこにこしながら美樹に、
「お母さんから聞いたぞ。今日、偉かったな」
と言った。美樹はほんのりと赤い頬でうなずく。テレビではセミについての紹介がされていて、大袈裟な前振りの後、セミの羽化の映像が流れ始めた。優子が、少し前屈みになる。抜け殻でしか見たことのない、セミの幼虫が動いている姿に、優子は興味津々だ。背中が割れ、中から何かが見え始める。やがて頭が出て、次に胸も出てきた。
「なんか、グロテスクだな」
父は言った。単語こそ知らなかったが、美樹は父と同じ気持ちだった。優子はそれでも画面に釘付けだ。そうして、腹が出始めるのと同時に、折り畳まれていた翅がゆっくりと開き始めた。エメラルドを思わせる美しい緑と半透明の白い翅が開き始め、すべて開き終えると、それが光を受けてうっすらと虹色に輝いた。
「すごい、きれい。天使の羽みたい」
優子は嬉しそうに、独り言を言った。天使の羽。美樹は頭の中で呟いて、それから父を見た。すると父と目が合う。なんだかおかしくて、二人とも静かに笑い合った。映像はそこで終わり、スタジオに切り替わる。スーツを着た賢そうな人が、補足説明をし始めた。
「今の映像は早送りでしたが、実際はセミの羽化には二,三時間かかります。夕方頃から羽化をして、この後はまだ、からだが白くて柔らかいですから、皆さんの知っている成虫になるには次の日の朝までかかるんです。セミが鳴き始めるには、それからまた二,三日かかるんですよ」
美樹は知らなかった事実に素直に驚いた。
「ねぇ、お父さん。殻から出て、すぐ大人じゃないんだね」
「うん、鳴き始めるのに二,三日かかるなら、そこからが本当の大人なのかもね」
最初よりずいぶんテレビに近づいている優子に、美樹がだめでしょ、と声をかける。今頃、外ではセミが羽化しているのかな、天使の羽、見てみたいな。文句をたれる優子をたしなめながら、美樹は自然と頬が緩んでいた。
知人に読ませてみたら、国語の入試問題だと言われました。
私もそう思います。
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