君に血を捧げたい
――――悍ましい怒号と、燃え盛る火の手が私たちを取り囲む。
けれど、そんなものには何の意味もない。
迫る火の手も、私たちを炙り出そうと急き立てる叫びも、その何もかもがどうでも良いとさえ思える。
気がかりなのは、たった一つ。
目を背けたくても、絶対に背くことの出来ない現実だけが、私の心内を掻き乱す。
焼け爛れ、ボロボロになった自身の手に抱かれた少年。
その平凡な顔立ちに似合わず、この国の人らしからぬ髪と瞳の色を持っている、少し変わった人。……こんな私にも、優しくしてくれた人。
――誰よりも、そして何よりも愛しい人――
失われていく命は、とても大切なものだった。
いまさら足掻いても、取り戻すことは叶わない。
何故なら私は、所詮奪うだけの化け物でしかないのだから。
彼がくれたやさしさに報いることも、彼に何かを与えることも出来ない。
意地汚く、終わりを拒むように想い願う。
しかし、どれだけ想ったのだとしても、結局それは自分の願望でしかない。浅ましい私はこんな時でも自分のことばかり願い、祈っている。
これ以上、何も奪いたくない。……何も、失いたくない。
だというのに、まだ私は奪うことになる。こんなことを、望んでいたわけではないというのに。
それでも私は、結局それを奪う。
あなたに、死んでほしくなどないというのに。
本来の筋書きの通り、駆逐されるべき化け物の血を持って生まれた、他ならない私自身がこの定めは受け入れるのは構わない。
あなたが生きていてくれるのならば、それだけで良い。
例えこの身が、その傍らにいることが叶わないのだとしても……誰かにその場所を譲ってしまうのだとしても、それでも私は、あなたに生きていて欲しい。
儚く脆い、どうしようもなく甘い絵空事なのは解っている。
醜く別れを拒む詭弁だということも理解している。
でも、――それでも。
死に行く身であるならば、断末魔の一つも上げても構わないはずだ。
物語はどんな時でも、より大勢が讃える主観が置かれる方に傾くものであるし、何時だって、物語の結末を彩るために越える壁役は異形の怪物の死に様なのだから。
なら、ここで果てるのは私のはずだ。
化け物が浅ましい悲鳴の一つも上げて何が悪い。
私が生きていることそのものがこの結果であり、存在そのものが今の光景を生み出した原因に他ならないというのなら――私にだって、こうなってしまう数奇な運命とやらを恨む筋合いもあるはずだ。
関わりさえなければ、こうなることもなかったのだろう。
……いっそ、出会わなければ良かった。
なまじ出会っても、こんな状況になるくらいなら、見捨てて欲しかった。
これまで重ねた高揚をすべて失う代わりに、何よりも愛しいものはこの世に残る。
そんな惰性の、化け物の自己満足で終われたかもしれなかった。
しかし、それでも彼はここに来た。
放って置いてくれれば良かったのに。
頭をよぎる事柄は、同じ恨み言を反芻するばかりで進まない。
思考がさび付いていくのとは裏腹に、感覚だけはいっそう強く腕の中の温もりを感じ取って伝えてくる。
その姿を、私には無様などとはとても言えない。
寧ろそれは、無謀や浅はかなどという言葉さえ越えるほどに痛ましい。
だが、そんな痛ましさを追う覚悟をしてここまで来たことに。――来てくれたことに、浅ましい心が歓喜を叫ぶ。
掻き乱され続け、ここが現実でさえないような気がしてくる。
もちろん、そんな都合の良い夢現とした世界の緊迫感などとは縁遠く。
ここはどこまでも、憎らしいまでに覆らない現実そのものだった。
――――熱を失って行くその身体。
静かに流れゆく、生の楔。
彼を繋ぎ留める為のソレは、留まりを知らずにあふれ出す。
こうした今際の際だというのに、この口からは気の利いた言葉の一つも出ない。
漸く絞り出すように口から洩れたのは、凡そこの場に似つかわしくない、あまりにも漠然とした問いだった。
〝……こんな化け物に何故、あなたは生きろというの……?〟
静かに訊ねた声は、一時の間、この世界の何物からも隔絶されている。
大した時間でもないというのに。はっきりとこの時だけ、確かに世界には私たちしか居なかったように思えた。
同じく、枯れていく花のように散り逝く刹那。
投げかけた問いかけに続く言葉だけが、厭に強く脳裏を震わせる。
痛いだろうに、苦しいだろうに――見ている此方の方は喉を掻き毟りたくなるような、穏やかな笑みを向けて彼は短く、こう応えた。
〝……ぼくも、君と同じだから〟
微かに響く声が、さらに揺さぶりをかける。
至極単純で、どこまでも陳腐な、恨みがましい程に優しい幻想のぶつけ合いだ。
私が自分の為に彼を想うように、彼も自分為に私を想っている。
もしもこれが、他愛のない自惚れだったのならば、どれほど良かっただろう。
だが、この覆せない現実が憎らしいように。
その狂おしい程の愛しさもまた、まぎれもなく、覆せない本物であった。
歯噛み、湧いてしまった気持ちに蓋をする。
混然となった内面に、激しく熱が起こり始めた。
呼応するように、頬を伝う雫が温かく流れ落ちていく。
世界は、本当に底意地が悪い。
醜いはずの衝動と、身を焦がす熱情は背中合わせ……世界で一番愛しい人と、その人と一緒にいられない原因が同じ源から起こっているのだから。
まるで今の私は、理性をかなぐり捨てようとしている獣のようだ。
ずっと求め続け、或いはそれ以上に。何よりも忌諱し続けて来た、この身体を食い破ろうとしている、その本能。
この世の何よりも忌まわしかったソレに今、私は身を委ねてしまう。
願われたから、
求められたから、
本当は失いたくなかったから……。
なんて、そんな理由は嘘偽りでしかなく――この胸の内は、彼の発するありきたりの言葉にすっかり満たされてしまっている。
〝君に……死んでほしく、ない……〟
託された願いは、詰まるところ自分勝手なものだ。
熱に浮かされ、盲目的であっても決して、胸を覆う虚しさから逃げることも能わず。失うことだけは、どんな愛しさの中でも消せない。
もしも今、何かが出来るのだとしたら……それは。
世界の理不尽に、完全に別たれるよりも早く。
何よりも愛しかった人の痕跡を、もう二度と失わないように。
その痕跡を余すことなく、自分の内側に取り込んでしまうことだけだった。
残された灯は、もう見えないほどに弱々しい。
猶予など、出会ったときから使い果たしていた。
唯一与えられていた、最も幸福な時間を使い果たしてしまった私たちが取れる選択はもう、永久に別たれることだけ。
抗うことの出来ない、流れや定め。
これが仮に、残酷なまでに機械的な等価交換であるのだとして。
幸福だった代価に別離があるのなら、この不幸の代価に再会はあるのだろうか。
巡り、巡り続けるだけの仮定。
妄想や空想、虚偽、夢幻の類であっても、その先に何か希望でもあればと願わずにはいられない。
そんな忌まわしい本能に身を委ねながら、それでも抱いた祈りを込めて――彼の首筋に向けて、迷わずに歯を突き立てた。
突き立てた牙から伝わった鮮血の味を、きっと私は死ぬまで忘れることは出来ないだろう。
舌を這う、ヒトを生かし続ける命の雫。
弱り、枯れていた身体を満たす愛しき熱の滴。
他の誰でもなく、私にしか味わえない至高の味。
誰にも譲りはしない、私だけの、彼から貰った贈り物。
それは、色褪せることのない無常の愛情を捧げた美酒であり、世の理という無念に支配されていた苦汁であると共に――――
――――きっと何よりも、どんなものよりも大切な、誰に渡したくない宝物の欠片だった。
***
それは遠く、遠い日々の記憶。
化け物としてではなく、ただ己として傍に居たいと望んだ少女の結末。
決して戻れぬ、暖かい日々。
あの日の記憶は、今もなお鮮やかに。彼女の中にあるソレに刻まれている。
いずれ消えてしまうかもしれないほどに優しく、淡く儚い思い出。
けれど、だからこそその傷を胸に、彼女は生き続ける。
望み、望まれた幻想のぶつけ合いの末に……。
自らが選び、彼が願った想いを糧として、この命の限り、生きていく――――




