エルム騎士団が栄光をつかむその日まで
走っていた。星の光を浴びながらひた走っていた。
息を吸うたび喉がヒューヒューと鳴り、足は太ももからふくらはぎにかけてズキズキと痛んだ。もうとっくに限界だった。
「は、はあっ、はっ……」
助けを求めるように見回すが、あたりは闇に包まれ、遠くに城の明かりだけがぽっかりと浮かんでいる。
夜とはいえここは王都だ、なのにどうしてすべての家が戸を固く閉ざしているのだろう。誰か助けてくれたっていいじゃないか。
恨みがましい目で街を見ながら、僕は走り続けた。
今の状況を端的に説明すると、かれこれ1時間、僕は魔物に追われている。
そもそもどうしてこんなことになったのか――始まりは王都を目指して故郷を立ったところだろう。
僕は元々、山々に囲まれた辺境の村で暮らしていたが、とある目的があって王都に行くことを決意した。
道中トラブルに巻き込まれては、何やかんやで上手くやり過ごし、20日後の夕暮れ。僕はやっと王都にたどり着き街に入る。
しかしここからが予想外で――ガリア王国で最も華やぐ街王都は確かに立派だったが、夜になった途端人々の姿が消えてしまった。
僕が「何だ何だ」と困惑している間に、通りの向こうにうっすらと影が現れて――それは襲いかかってきたのだ。
犬のような、狼のような身体。けれど真紅の瞳と口からしたたる液体は、奴が魔物であることの証明。
暗くてよくは見えなかったけれど、顔周りもびしゃびしゃに濡れていたと思う。たぶん何かを喰らった後なのだ。そして次のターゲットは――考えるまでもないし考えたくもない。
とにかく僕は直感した。まずい、殺られる。
そんなわけで僕は一目散に駆け出し、魔物も僕という獲物をしつこく追ってきているのだ。
「……っ!」
路地を抜け、市場に入る。
ちらりと後ろを振り返ると、まだ魔物が追いかけてきている。
僕は心のなかで謝罪してから、市場に並んでいる商品棚を押し倒した。もう1つ倒す。さらにもう1つ。
棚に残っていたビンが激しい音をたてて割れ、あたりにほの甘い香りが広がった。
即席バリケードで時間を稼ぎつつ、僕はさらに奥へと進む。
幸いなことに市場は障害物だらけだった。これならどこかに隠れられるかもしれない。屋台がせり出していて走りにくいが、それは向こうも同じだ。
「は、あっ……」
細い脇道を見つける。後ろに目をやると、魔物はまだバリケードに苦戦しているらしく姿は見えなかった。奴は見た目と違って動きが悪いのだ。
――――今のうちだ! 僕は脇道に入りまた走る。
しばらく進んだところでひとまず立ち止まり、壁に手をついて荒い息を繰り返す。両足がガクガクと震えていて、その場に座り込んでしまった。さすがにこれ以上は走れない。
「来て……な、い……か」
端の方に木箱が積み重ねられているのを見つけ、その物陰に身体を滑り込ませる。木箱の中からは鼻をつまみたくなるような悪臭が漏れているが、この際仕方がない。
真っ暗闇のなか息を殺して魔物が通り過ぎるのを待っていると――ドスンと音がした。
「…………え?」
間抜けな声が漏れた。けれどそれ以外の反応ができるはずなかった。
僕の進行方向、つまりは路地の奥からまた別の魔物がやってきたのだ。
今度は熊のような見た目をしていて、確実に僕の背より高い。鋭い爪が見え隠れし、やはり口元からは何らかの液体がしたたっている。
ギラギラと光る真っ赤な目が僕をじっと見つめた。恐怖やら絶望やらを通り越して、もはや笑うしかない。
「あの……グルだったりする……?」
当然返事はない。というか僕の言葉が通じているのかどうかもわからない。代わりと言っては何だが唸り声で威嚇された。
まだ足が震えていて立ち上がれない。
僕はとっさに短剣を抜いた。
こんなものでどうにかなるとは思っていない。第一、剣の腕がたつわけでもない。だけどこのまま黙って喰われるのだけはごめんだ――僕はまだ何も成していない!
「う、あ、うわああああああ!」
叫び声を上げながら無我夢中で剣を振り回した。まぐれでいいから当たれ。構えだの剣筋だのは知ったことではないし、考えているだけの余裕もない。
そんな必死の足掻きをものともしない魔物はのそのそと近づいてきて、自ら斬撃を受けた。
肉を切り裂くような、嫌な感触が伝わってくる。
なのに魔物は一歩も退くことなく、僕を見下ろしてニタニタと笑った。獲物を捕らえた喜びの反応だった。
その瞬間僕は悟る。これは無理だ。
本能がすっかり諦めてしまったせいだろう、身体が固まってしまって、短剣が滑り落ちた。真っ暗な路地裏にカランカランと小気味よい音が響いた。
「何だよ、これ」
自分の運のなさを呪って、嘆く。
「なんで、こんなことに……」
頭の奥がぼうっとして、涙も出てこなかった。
呆然としたままゆっくりと上を見上げると、建物の間から見える星空がやけに綺麗だった。これが僕の見る最期の光景らしい――。
痛みに備え、目を閉じようとしたとき。
それは空の上から降ってきた。
「……っ!?」
人だった。それも僕より幼い、16歳ほどの少女だった。目の前で金の髪が揺らめいた。
彼女の手は大剣を握っていて、着地より早く振り下ろす。あまりにも鮮やかな一撃。瞬きする間もなく、気づけば魔物は真っ二つに割れていた。
一瞬にしてただの肉塊となった魔物はピクリとも動かない。僕は震える手で指差しぱくぱくと口を動かすが、言葉など出てこない。
少女は剣を鞘におさめ、振り返った。
「怪我は」
「え?」
「怪我はない?」
ようやく言葉の意味が飲み込めて、慌てて何度も頷く。少女はそれっきり何も言わなかった。
無言の中、僕は無遠慮にも少女をまじまじと見つめた。
柔らかそうな髪を無造作にまとめ、年頃の割には化粧っ気がなく、何やら騎士のような身なりをしている。
一見すると勇ましい戦士のようだが――彼女はとにかく可愛らしかった。大きな瞳、小さな唇、まるで人形のようだと思った。無表情なところまでそっくりだ。
思わず見惚れていると、遠くから「おーい!」と声がする。弾かれるように振り向くと、1人の男が駆け寄ってきた。
少女は姿勢を正す。
「団長、目標を討伐しました」
団長と呼ばれた男は嬉しそうな顔で、少女の頭をわしわしと撫でる。
「よくやった! さすがリツだ!」
「……ありがとうございます」
元々乱れていた髪がついに爆発する。けれど少女も嬉しそうに目を細めた。
「ところで」男はふと僕を見下ろした。「この少年は?」
「目標に追われていたので保護しました。負傷なしです」
男はしゃがみこみ、僕と目線を合わせる。30代にさしかかったくらいの雄々しい人だった。
「なるほど、それは災難だったな。少年、名は?」
「アレン……です……」
「よし、では詳しい経緯はうちに戻ってから聞こう。アレン、我らエルム騎士団――じゃなくてエルム自警団が来たからにはもう安心だぞ!」
エルム自警団、と小さく呟く。絶体絶命だった僕にとっては運命にすら思えた。
男は「がはは」と豪快に笑い、僕の頭もわしわし撫でる。荒っぽいがどこか優しさも感じる、まさに父親のような手つきだった。
真昼のように温かくて大きな手のひらに、今更ながら緊張の糸がぷつんと切れた。
「――あ」
視界がフェードアウトしていく。身体のバランスが取れなくてぐらぐらと揺れた。地面が近づいてくる。
ぶつかる、と思った瞬間僕の意識は途切れた。
カンカン、と甲高い音が響いた。
まどろみに入り込んでくるそれがうっとおしくて、僕は唸り声をあげる。まだまだ眠っていたいのだ、邪魔をされたくない。
しばらくすると再びカンカンと音がする。先ほどよりも大きくて癇に障る。耳を塞いで身体を丸めた。
「……いい加減に起きて」
「ぐふっ」
わき腹のあたりを突かれて、僕は飛び起きた。反射的にきょろきょろと左右を見る。
「おはよう。よく眠れた?」
「何故か全身が痛いです……」
「……その床じゃあね。苦情なら後で副長に言って。シメられると思うけど」
鉄格子の向こうには少女が立っていた。
少し癖のある金髪、人形のように美しい顔。僕を助けてくれたあの少女だ。そういえばリツと呼ばれていた気がする。
彼女は棒のようなものを手にしていて、どうやらあれを鉄格子の間から差し込んで、僕を突いたらしい。
「……ん?」
鉄格子?
改めて自分の周囲を見回す。四方八方を石の壁に囲まれた小部屋で、窓はない。床には布1枚が敷かれている。足首は鎖で繋がれている。
目の前にはまっているのはやはり鉄格子で、あくびをしている少女は門番。
どう見ても牢屋だった。
「待って待って待って」
僕は鉄格子にしがみついた。
「ここどこですか? なんで僕が牢屋の中に? 君が魔物から助けてくれたところまでしか覚えてないんですけど……!?」
あの感動的で運命的な出会いから何があったらこうなるんだ。思いつくだけの疑問を早口でまくしたてる。
少女はしばらく眠っていないのか、充血した目をこすりながらも答えた。
「ここはエルム自警団の本拠地……の地下牢。気絶したあなたはここに連れてこられて、身元確認後、副長命令で牢に放り込まれた。理由は簡単」
少女の声は冷淡だ。
「だってあなた、罪人なんでしょう?」