私立文系フェイクロア百六十円(税込)
大学生活も一年過ぎれば残りは惰性でどうにかなる。
それはおれが根本的にクズだからに過ぎないが、人間など低めに見積もって九割までがクズみたいなもので、模範的な学生という高すぎるハードルを飛び越えられなかった程度のことが人生の汚点になったりはしない。だいたい誰もが同じように転び、だいたい誰もがなんとなく流される。
おれたちは限られた優秀な人間でないことを嘆くのではなく、主流から零れ落ちない程度に凡庸なその他大勢であることを、まず最初に誇るべきだった。
できなかった。
たとえば、貯めたバイト代で今こそ風俗デビューしようぜ! などと勢い込んで夜の街に繰り出していったアホの友人どもでさえ、そんな金も持たないおれからすれば妬ましいこと憎らしいこと。
この日のためにシフトを増やしてな、と下卑た顔で快楽を夢想する坂上も、イイ店知ってるよ、なんてこの世で最も程度の低い自慢をする正木も、お前は来ないのかーいやもったいないなー、などと半笑いで口走った桐山でさえ、財布に百七十五円しか入っていなかったおれには判定勝ちだろう。
もちろん認めるのが癪でしかないそんな事実は脳内で都合よく改変され、連中は愛を金で買うほかない憐れで唾棄すべきバカ野郎どもであるという認識補正は十全に行われる。
いやまったく風俗で童貞捨てようなんて下らねえ。
一身上の都合によりやむなく欠席せざるを得なかった五限の講義が終わったあとで、おれは坂上、正木、桐山という覚える必要のない名前をした三バカと連れ立って大学近くの喫茶店に寄ったわけなのだが、バイトをせず仕送りだけでかつかつの日々を送るおれに、連中は「哀れなり貧乏人」とのレッテルをぺたんこ貼ったのち、かわいそうだからとかなんとか言って、ただ黒いだけでオシャレぶっている水ことコーヒー(七百円)を奢ってくれた。
だから連中が風俗街に繰り出したあとも、ひとり残された憐れで虚しく惨めで悲しい、言い換えれば真面目なおれという男は、一杯の奢られたコーヒーだけで閉店間際まで粘った。
現代社会において百七十五円でこれ以上の時間を潰すことは難しい。
そもそも財布の百七十五円はおれにとって命綱であり、たとえそれがほとんどゼロと大差なくても、ゼロではないという事実が役に立つこともある。たとえば、そう、気が紛れるとか。そんな感じ。
土台、百七十五円をどんな商品と交換したところで、そこからわらしべプロトコルによる億万長者化など不可能だ。この額では宝くじ一枚買うことすらできないのだから、まったく何が春のドリームくじか。夢を金銭で買う場所など、舞浜だけで充分だろうに。
およそあらゆる方位に喧嘩を売りながら、それでも買ってもらえるなら懐も潤うはずだと考えているおれは末期的を通り越して終末的だった。終電で自宅アパートに戻る過程が虚しさを一層引き立たせる。
そもそもおれは時間を潰すことが目的だったわけじゃない。
単に自宅へ帰りづらかっただけ。それも家に帰るのが嫌だったというよりは、単に風俗街へと繰り出していった連中が羨ましかっただけに過ぎない。
要するに、張りどころを間違った意地というヤツ。
最寄り駅で降りて、徒歩二十分ほどかかるアパートまで歩いた。
この期に及んでまだおれは帰りたくないと思っている。
家に帰るということは一日を終えるということで、あの三バカですら有意義に過ごした一日が完全に無為だったと突きつけられるということ。それを認めたくないというだけで、意味のない足掻きを繰り返す。
普段は通らない無駄に広い公園に入ったのは、それが理由だ。
日常を変革するに足る、劇的な変化を求めていた。
なんでもいい。日常を彩る非日常ならなんだって歓迎だ。たとえば美少女に出会うとか最高だね。
――だからといって、自らを聖女と名乗る幼女に会いたいなどとは、さすがに考えていなかったが。
暗い公園の中に、外灯と、そして自動販売機の明かりで目立つ一角がある。
そこに自動販売機を見上げたまま、漫然と立っている幼女がいた。どう上に見積もってもせいぜい中学生と言ったところ。実際には小学四、五年生だろう。
一瞬、影が立っているのかと錯覚するほどに真っ黒い出で立ち。これでゴスロリでも着ていれば雰囲気もあろうが、残念ながら彼女が着ているのはどう見たところでジャージだった。黒いジャージ、という時点で割とレアな気がしないでもないけれど、どうだろう。いずれにせよ、浮いていることは事実だった。
おれはこの公園で遊ぶガキの姿などついぞ見かけたことがなかったし、ましてこんな日付も回ろうかという時間に幼女を見かけることがあろうはずもなかった。周囲を見回しても保護者らしき姿はなく、それだけで警戒するに足る光景だ。
最近いろいろ怖いからね。ほら、社会とか世界とか。
ふと、そこで幼女がこちらを振り向く。俺の存在に気づき、なぜかこちらに向けて手招きをした。
やはり何も考えないおれは、誘われるがままにそちらへ近づいたが、幼女の眼前まで近づいてなお話しかけようという発想すら湧いてこなかった。
「ん」
と幼女は自販機を指差す。長い黒髪がなびいて揺れた。
首を傾げたおれを、まるで察しの悪い間抜けなロボットを睥睨するかのように睨んで呟く。
「いいとこに来た。喉が渇いたぞ」
知人面する初対面だった。しかも幼女。美幼女だ。
この放言を聞いて最初におれが思ったことを正確に表現するのなら、思わず吹き出しそうになった、が正解だ。変に世間ずれした小生意気なガキが、年上をからかっているのだろう、と。
どこか昔の自分を見るかのようだった。
いやねえな。おれより恵まれた顔してるくせに中二病拗らすとか許されねえわ。
ごく平均的かつ良心的な大人であるところのおれは、舐めたガキに対しても大人な態度を心がける。
たとえば、あえて甘ったるいカフェオレの500mlボトルを購入したりとか。喉が渇いてるときにこんなもん飲めないだろザマぁ、と世間の厳しさを教授する。
つもりが、ガコンと自販機が吐き出した飲料を、幼女は自然に奪っていった。
「おい、何してんだクソガキ」
思わずおれは言うが、幼女は気にも留めない。
「よく私の好物がわかったな」
「いや知らねえよ。つーか何当たり前みたいに飲んでんだ金返せ」
「百六十円くらいでけちけち言わないでほしい」
その百六十円がおれの全財産のいったい何パーセントを占めてると思ってるのか。
そう言ってやりたかったが、言ってもダサいだけだし、何よりどうせ返却されることもあるまい。
やたら美味そうにカフェオレを飲む幼女を、眺めている以外なかった。
「ん、美味かった。礼を言う」
「じゃあ言えよ」
「まあまあ。お礼にいいことを教えてやる」
礼は言われない模様である。
「迷子か、幼女? 交番なら駅前だぞ」
「人生の迷子が偉そうに」
「ははははは」
泣かすぞ。
「それに幼女ではないよ。私は聖女だ」
「なんて?」
「神の遣いだ。下っ走りとも言う」
「……あー、はいはい。聖女っつったのか」
ガキらしい表現なのか、どうか。一瞬、聖女という字が浮かばなかった。
どっちかっつーと魔女に憧れるもんなんじゃ? と思ったが、まあ幼女界隈での流行などおれが知るはずもない。聖女ブームで聖女ムーヴしてんだろう。
実際、魔法が使えると言い張られるより、神様に教わったってほうがかわいげが――いやねえな。むしろより怖い。
「で。お告げってなんだよ」
興味があったわけじゃない。ただ時間潰しに訊いてやっただけ。
それでも満足げに幼女は頷くと、おれを指差し、こんなことを宣ったのだ。
「お前、このままだと今週中に三回死ぬぞ」
「三回死ぬときたか」
信じたか信じていないかで言うなら、それ以前に意味がわからない。
生憎おれは残機制の世界観に生きていなかった。所詮はガキの戯言に、整合性を求めるほうが間違いだろうが。
それでもバカバカしいと切って捨てられなかった理由はふたつ。
ひとつは幼女がどう見ても真剣そのものだったこと。からかっている様子がまったくない。
そしてふたつ目。
「そら、さっそくだ」
「あ?」
よく見れば幼女は、俺を指差しているのではない。その背後を示しているのだ。
おれはそのまま背後へと振り返った。何かがあるなんて気づいていたわけじゃなかった。
同時。おれは足を崩して転ぶ。
視線を外した瞬間に、あのクソ幼女が俺の足を払ったのだと気づくのと――
それまで俺の首があった空間を、日本刀が一閃するのはほぼ同時のことであった。
「だ――、は?」
状況を理解できない。だから言葉にも中身がない。
そりゃそうだ。夜の公園で日本刀持った鎧武者に襲われるって。彷徨う甲冑て。B級映画の脚本でも、もう少し筋道立っている。
今どきサムライ=ゴーストはない。現実舐めすぎだろ。大学生かよ。
「早く立て。明日の朝刊で一面を飾りたくないならな」
「は、あ?」
「百六十円の礼だよ、束田陽。――助けてやる」
なぜ名前を知っているかはともかく。
幼女に託した百六十円。こいつがおれの命の値段。
眼前には銃刀法違反の鎧武者。
背後には黒ジャージ系幼女。
そして腰抜けの私立文系クソ大学生(残金十五円)。
このどうしようもない非日常は、こうして幕を開けたのだ。
ま、五秒後には閉じそうだったけど。
ていうか死にそうなんだけど。