個人が世界の平和に貢献できる事は、あって無きに等しいのか
このエッセイは拙作『治安維持法は悪法だったのか?』、『日本が世界を支配すれば良いと思う』に寄せられた、とある読者の方からの疑問やご指摘に答える中で、ではどうしたら世界を平和に出来るのかを逆に問うた際、タイトルのような事を回答して頂きましたので、それに対する返答というややこしい次第となっております。
では本題へ。
私は全くそう思いません。
個人が日本の平和、世界の平和に貢献出来る事は多々あると思っています。
勿論、私の行動が世界を動かすなどと、誇大妄想狂が如き事は言いません。
個人の出来る事などたかが知れています。
しかし、あって無きに等しいなどと、敗北主義のような考え方には与しません。
敗北主義とは勝利や成功の手立てを念頭に置かず、初めから敗北、失敗するだろうと考えて事に当たる考え方や態度です。
簡単に言うと、どうせ失敗するからと本気でやらなかったり、凡人には無理だからとやる前から諦めている、そんな考え方の事です。
果たしてそんな人に、現在を、将来を変える事など出来るでしょうか?
私は思いません。
何か困難にぶつかったら、ほらやっぱり駄目だったと直ぐに投げ出す事は目に見えているからです。
また、そんな人は言い訳だけは上手だったりします。
個人の偏見ですが、敗北主義は言い訳とイコールだと思っています。
日本国は憲法に国民主権と明記されています。
国民主権とはWikipediaによると<主権は国民にある、という思想であり、つまり国民が政治権力の源(拠り所)・責任主体であり、政府は国民の意思により設立され運営される機関であるとする思想のこと。「主権在民」または「人民主権」ともいう。>
つまり、国政の責任の主体は国民にあるのです。
国民の意思が国家の在り方を規定するという事です。
では、国民とは一体誰でしょうか?
私や貴方、日本国籍を持つ我々一人一人です。
国民の意思とは、我々日本国民の一人一人が持つそれぞれの意思が統合されたモノであり、一人一人の意思があって初めて成り立つモノです。
逆に言えば、私というたった一人の意思が国民全体の意思になりうるのだという事です。
初めは一人きりで訴えていたけど、段々と賛同者が増えていって今では、とか、普通にあるでしょ?
しかし、それぞれの意見は違って当たり前です。
そして、全ての人が満足する政策を求める事はできません。
現状、どこかで多数決を取らざるを得ない。
多数決は多い方が勝ちます。
そうなれば当然、その案に反対していた少数派は不満を覚える事でしょう。
でも、他に方法があるのでしょうか?
自分達の意見こそ正しいと思うのなら、多数派になれるべく粉骨砕身して事に当たるべきなのでは?
意見の違う人は説得し、自分達の信じる正義を広く訴え、その実現を図る為に必死に努力すべきなのでは?
システムとして多数決となっているのですから、システムに則り、正々堂々(買収もある意味正々堂々ではある)とやらなければならないのでは?
多数派になる競争に負けた癖に、後から文句を言うのはみっともないのですよ。
これってつまり治安維持法の成立過程と同じなのだと思います。
大日本帝国の占領統治政策は、当時の価値観でも認められていなかったとかいう考え方も、負け犬の遠吠えに過ぎません。
どちらにも反対していた良識派は、多数派(主流派とも言う)になれなかった事を以て、治安維持法にも占領統治にも責任の一端があります。
勝てなかったのですよ、当時の治安維持法反対派や占領統治反対派は。
軍部が独裁をしていたにせよ、良識派が軍部の主流になれなかったので同じ事です。
これは今の野党を見ていたら良く分かるかと思います。
年金に関して野党が自民党を追求していますよね?
今の年金政策に問題があると考えるのなら、国会議員として解決策を提示し、議論の俎上に上げればいい。
選挙公約に掲げて国民に信を問い、与党になればいい。
それで好きなだけ改革していけばいい。
選挙に勝てない時点で終わっているのです。
自民党は独裁だなんて言い訳をするなという事です。
話が脱線してしまいました。
個人が世界の平和に貢献出来るのかを考えます。
先に国民の意思が国家の在り方を規定すると言いました。
国民の意思は一人の意思から始まるとも。
一人の平和への意思が国家の意思へと変わり、そんな一人が相手国にもいたなら、その両国間では平和への意思が共有されるでしょう。
当然、世界の平和も個人の思いから始まります。
ですから個人が世界の平和に貢献出来ると考えます。
始まりはいつも一人の意思から、だからです。
幸いな事に現代は情報技術の発達で、SNSを使って世界に意見を発信出来る時代です。
個人の力はかつてなく大きいと考えます。
大切なのは個人の意思です。
意思を実現しようとする個人の意志です。
意志を叶える為の個人の行動です。
そんな一人一人の行動の結果が国家の意志へと繋がり、平和の実現へと繋がるモノと考えます。
勿論、それでも起こるのが争いではあります。
しつこいかもしれませんが、個人が世界の平和に貢献出来る事は、あっても無きに等しいという考え方を検証します。
個人にやれる事はないと思って諦めた結果が、先の治安維持法の制定へと至ったとは考えられないでしょうか。
頑張った所でどうせ阻止出来る筈がないと思った結果、みすみす制定を許してしまったと。
ここで今、治安維持法に類する法案が国会で議論に上がったとしましょう。
個人に出来る事はないと思っている人は、それを見ても何も動かない人なのですよね?
不安を周囲に訴える事もしないし、反対の意見をSNSに上げる事もしない。
デモにも参加しないし、反対している党に投票する事もしないと。
自民党が与党である限り反対しても無駄だと考えますかね?
敗北主義の何物でもありませんよね。
あっても無きに等しいのであって、投票だけでも十分に貢献していると言えるのでしょうか。
でも、それが多数派になれない時点で負けなのです。
反対派を説得するなりして多数派にならない限り、多数決の前では少数派は常に負けるのですから。
正義を実現しようと思ったら諦めては駄目だし、たった一人の個人であれ、自分に出来る事をやり続けていくしかありません。
言い訳は必要ない。
まずは自分の意思を示せという事です。
国家の意思はそこから始まるのですから。
意思のない者に現実を変える事は出来ないという事です。
香港のデモは個々人の意思を統合した結果です。
個人の力は小さくても、数が集まれば力になる。
現実がどれだけ困難でも、諦めずに戦い続ける以外にありません。
個人に出来る事は、声を出し続けるという小さなかもしれません。
しかし、それに賛同する人が増えれば、それは確かな力になり得ます。
個人に出来る事なんて知れているという敗北主義は必要ありません。
このエッセイは特定の個人に向けて書いておりますが、ミュートユーザーに登録しています。
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