第70話 白峰 寧子
「悠月様、待ってくださいませ」
呼び止められた声に振り返る。
するとそこには、往来の人混みに押され流されている寧子の姿が。
町歩きに慣れていないのか、見た限り自力で抜けてくるのは無理そうであり、このままだと距離が開く一方。
やむを得ず、人混みをかき分けながら来た道を戻る。
そうして不安そうに助けを求める寧子の腕を掴み。
流れに揉まれながら人混みを抜け、一番近くの小道へ入り一息つく。
「ありがとうございます。悠月様はお優しいのですね」
「⋯⋯」
白峰邸で将来の伴侶として寧子を紹介され。
外出している小雪が戻ってきて鉢合わせでもしたら、それはもう⋯⋯とんでも無い事になる。
そのため、そそくさと白峰邸を後にしようとしたのだが、その際に凪様から言われた寧子を送っていくようにとの一言。
僕としては当然難色を示したが、寧子自身は何ら悪い点は無い。
悪くも無いのに無碍にされる気持ちを思えば粗略に扱う事も出来ず、結局こうして生家まで寧子を送っている。
ただ、小雪がどこに行ったのか分からない以上、こんな所を見られたら⋯⋯という恐怖が常に付き纏う。
「悠月様、ご覧ください。とても綺麗にございます」
先程の大通りは寧子には人通りが多すぎたため、小道を抜け別の通りへ。
抜けた先の丁度真正面、そこには風鈴を売る露天商が店を開いていた。
色とりどりの風鈴が陽光を反射し、ゆらゆらと風に揺れる舌。
夏の風物詩とも言うべき音色が通りを涼やかに駆け抜け、それを僕の横で楽しむ寧子。
「悠月様はお好きな色などございますか?」
「青が好きだけど⋯⋯何で?」
「今日の記念に、と思いまして」
そう言って店の前まで行って寧子が手にした1つの風鈴。
それは水色に色付けされた上半分に金魚が泳ぎ、透明な下半分には水草が描かれた、見るからに涼し気な風鈴。
それを店主に包んでもらい、大事そうに抱えた寧子。
振り返った時に微かに広がった毛先にかけて橙がかった長い銀髪と、その嬉しそうな表情には小雪とは違った華やかさがある。
「⋯⋯」
「悠月様?」
――寧子とは出会って間もない。
それでも、良い子である事は十分に伝わってくる。
楚々とした佇まいに、名家の姫に相応しい気品。
相手の愛情に縋りつつも、決して厚かましさや押しの強さを見せない。
小雪のような強さは感じさせずとも仕草の一つ一つがいじらしく、お祖父様の頼みを受けて凪様が選んだだけの事はある。
凪様の見込み通り、寧子を新婦として迎え入れれば、きっとその後の生活は華やいだものとなるだろう。
「⋯⋯どう思ってるの?」
「何がでしょう?」
「見ず知らずの、会ったばかりの僕と結婚だなんて」
「⋯⋯悠月様は不思議な事をお聞きになるのですね」
予想だにせず不思議な事と言われ寧子の顔を見れば、そこに浮かんでいるのは本当に不思議そうな表情。
見ず知らずの相手と結婚となるのは貴族であれば当たり前。
そんな事は貴族の家に生まれれば、誰もが物心ついた時から分かっている。
けれど、それを一度として疑問に思わないのかと言われれば。
自分の感情とは全く別のところで勝手に結婚相手が決められる、その事に疑問を覚えるのは不思議な事?
女性であればこそ、そういった感情を覚えるのではないのか。
「大切なのは出会いではなく、その後ではないでしょうか?互いを思いやり、好ましく思い、大切にしあう。そうして年月を重ねながら少しずつ相手を理解してゆけば、良き夫婦になれると思いませんか?」
「それは、そうだけど⋯⋯」
「悠月様。寧子はもっと、悠月様の事を知りとうございます」
寧子との距離が一歩詰まる。
歳は小雪と同じくらいに見えるけれど、背の高さは寧子の方がうんと低い。
僕よりは高くとも、少し背伸びをすれば。
小雪とよりも互いの顔が近いからこそ、互いの目を通して思っている事がより鮮明に伝わってくる。
「送るよ」
「この通りも人がそれなりに多うございますね。⋯⋯はぐれないよう、手を握ってくださいませんか?」
そう言って差し出された寧子の手。
控えめに差し出されたその手を取るべきか、でも小雪以外の手を取るなんて――。
脳裏に小雪の顔が過り、ためらい、そして。
⋯⋯握った白い手は思っていたよりも華奢で、およそ刀など握った事が無いと思わせるほど滑らかだった。
「寧子は嬉しゅうございます」
悩んだ挙げ句、僕は寧子の手を取った。
寧子も緊張していたのか――ぱあっと明るくなったその表情を見て、どうしてそうしたのか自分でも説明がつかない。
僕の中で小雪の存在が軽くなったわけじゃない。
敢えて言うなら何となく、体が自然とその手を取っていた。
「当家はこちらでございます」
寧子と手を繋ぎ言われるがまま通りを抜け、小道を抜け、閑静なお屋敷町へと至り――。
その間に寧子がした様々な話や質問に相槌を打ったり答えたりしたものの、何て答えたのか⋯⋯まるで頭に残っていない。
そんな事よりも繋いだ手から伝わる寧子の体温。
その高めの熱が、僕の意識を埋め尽くしている。
「悠月様⋯⋯悠月様?」
「えっ!?」
「ここが当家にございます。ここまで送ってくださり、ありがとうございました」
「あ、うん」
「⋯⋯」
「⋯⋯」
「あの、手を⋯⋯」
「ごっ、ごめん!」
「いえ。握ってくださり、寧子は嬉しゅうございました」
手を握ったまま離さなかった事を言われ、無意識の事ながら急に恥ずかしくなる。
そうして焦って大きめの声を出してしまったからか。
目の前の屋敷から顔を覗かせた、家人と思しき数名。
そのうちの1人が屋敷内に大きな声で呼びかけると、今度はぞろぞろと人が出てきて囲まれる。
寧子に駆け寄った女中らしき数人がその手から風鈴を受け取ると、僕に軽く会釈をして寧子を邸内へと誘う。
少し残念そうな表情を見せた寧子ではあるものの、女中達と共に屋敷内へと向かい、その姿が見えなくなる間際。
「悠月様。今日はお会いできたばかりか送ってくださり、ありがとうございました」
「うん」
「悠月様にも⋯⋯もっと寧子の事を知って頂ければ、寧子は幸せに存じます」
振り返って残したその言葉を最後に、寧子の姿が屋敷内へと消える。
それに倣って僕の周りを囲んでいた家人達も、会釈や礼の言葉を残して屋敷内へ。
そうして潮が引くようにして人が居なくなり。
残ったのは僕1人、それと――。
今になって寧子の手を取った罪悪感が一気に押し寄せてくる。
まだ寧子の体温が残る手を眺め、その向こうに小雪の顔がちらつく。
まさか僕が躊躇った挙げ句、理由も説明出来ないままに小雪以外の手を取るなんて。
そう思う一方で、僕にそうさせるだけの何かを寧子が持っていたのも事実。
「⋯⋯ごめんね」
無意識に、どこかで――。
どんなに否定してもあの瞬間、緊張しながら手を差し出した寧子に惹かれたのは隠しようがない。
けれど今更、僕の気持ちが小雪以外の女性に移るなんて有り得ない事。
どうすればお祖父様に小雪との事を認めさせられるのか。
凪様が協力してくれないとなれば、独力で何とかしなければならない。
けれどそれをするという事は、今まで一緒に居た寧子の気持ちを踏みにじるという事でもある。
もし⋯⋯もし万が一、どうしてもお祖父様を説得できない時には。
その時にはつまり――僕は、寧子と⋯⋯。




