第7話 急変
「これを、どう見る?」
玄悠様は地図の上に一枚の巻かれた紙を放り投げる。
それを氏雅様が地図の上へと重ねて広げる。
広げたそれは元から広げられていた地図、それの丁度半分の大きさ。
そこには列島東部が描かれており、列島西部と同様に記号や数字がびっしりと書き込まれている。
「これは⋯⋯」
2枚の地図を重ねると列島全体の詳細な戦況が浮かび上がってくる。
ここ暫くは比較的安定した平和な時代が続いてきた、各国でそう言われていた。
だが目の前で広げられた地図では、列島東部・西部で大規模な戦争が巻き起こっている。
安定しているのは列島中央部、つまりは中京国の支配権が及んでいる範囲だけ。
平和な時代が終わりを告げ、再び戦乱の時代が到来しようとしている。
そう予感させるものが、そこにはあった。
「大京軍は此処だ。伯雷殿自らが総大将となり華軍を破った」
玄悠様が指を突いた場所は東北地方の南端。
長年、大京国と華国が争う火種となってきた地域。
今回の戦争も元は福島の領有権を巡るものであり、びっしりと書き込まれた記号は福島内に集中している。
それによって両軍の軍略が描き出され、2年の間に一進一退の激戦が繰り広げられていたことを窺わせる。
そして、ついに大京軍は華軍を破って自軍優勢を決定的なものとした。
福島における支配権、それを確定させたと考えていい。
だが、疑問点もある。
もともと優勢だと聞かされていた大京軍が華軍を破った事に疑問を挟む余地はない。
疑問なのは何故伯雷様が総大将なのかという事。
開戦当初の総大将は伯雷様では無かったにも関わらず、途中から出陣した背景に何があるのか。
「大京軍の大将は伯承様であったはず。伯雷様が直々に出陣されたのですか?」
「伯承とやらは今も将として軍内にいるが、目立った戦功は無いに等しい。埒が明かぬと見て伯雷殿が出陣したのだろう。大京国は将の不足が深刻だな」
たしかに一進一退の攻防を繰り返していた戦線が、ある時期を境に大幅に押し上げられている。
おそらく、その時期が伯雷様が総大将になった時期と見ていい。
「この数字は会戦時の兵力ということでしょうか?」
地図には×印のすぐ横に数字も記入されていて、その他にも様々な文字が書き記されている。
玄悠様が無言で頷くところを見ると、やはりこれは会戦地と両軍の兵力数らしい。
それらを追っていくと、最後に大きな会戦があったのは両軍ともに大きく展開できる平野部。
平野部での会戦は単純明快、力押しで押し切った方が勝ちを得る。
正面からの力比べであれば兵力で勝る方が有利なのは言うまでもない。
にも関わらず、大京軍は3倍もの兵力差を引っくり返して華軍を潰走させた。
今の大京国にあって3倍もの敵軍を破れるのは、伯雷様がお祖父様だけだろう。
そういった意味では玄悠様の言う通り、大規模な会戦を指揮できる将が大京国には不足している。
とはいえ、伯雷様が直接戦場に出るというのは幾ら何でもやりすぎだ。
たしかに次代を担うべき中堅が薄い大京国にあっては、伯雷様の軍事における盛名は絶大。
かつての大戦時代において大京軍の直接指揮を執って各国の軍を圧倒し、中規模国家だった大京国の版図を急拡大させた立役者。
当時から大国だった中京国相手に互角の外交を展開し、絶大な勲功をもって各国を震え上がらせた知恵者。
それほどの経歴と盛名を有する人間は大京国内にあっては伯雷様しかいない。
垂名の人と言っていい伯雷様の名を聞くだけで自軍兵士は勇躍し、敵兵は震え上がる。
列島全体でも名の重みで伯雷様に比肩しうる人間は少ないだろう。
そんな伯雷様も今では十分に老齢の域にある。
戦場を駆ける年齢は過ぎており、今では国家の重石としてある事が伯雷様の務めだと聞いた事がある。
国政中枢において文武両官の頂点に立っている事が、如実にそれを表していると言えるだろう。
そんな伯雷様が万が一にでも戦場で討ち取られるような事があればどうなるか。
前線において敵は勢いを得て、自軍の士気は一気に下がるに違いない。
国内においても文武百官は浮足立ち、大いに騒ぎ、国威は失墜する。
そうなれば前線が総崩れとなるだけで無く、国境そのものが崩壊してしまう。
だが、この戦争はもう終わったも同然。
伯雷様が総大将として着陣して3倍もの兵力を破られて尚、華国が福島に執着するとは考えにくい。
大京国と華国の係争地域である福島、そこでは概ね大京国が主権を保ってきた過去がある。
大京国としては自国の領土という認識が強いが、華国側からすれば守るべき領土という認識は薄いはず。
つまり、華国にとって福島という地域はあくまでも争奪対象。
既に広大な国土を持つ華国からすれば、抑えておけば大京国に対する圧力を強められる程度にしか価値を感じていないだろう。
だが、福島よりも更に北となると話が違ってくる。
そこは過去数百年に渡って華国が支配してきた本領。
そこまで大京軍が侵攻するような事があれば、華国も本気を出してくる。
それが分かる伯雷様は軍を福島北限に留め、先へ進もうとしていない。
超大国である華国相手に戦争が長期化すれば、国力で劣る大京国はいずれ敗北を余儀なくされる。
華国が本気にならないうちに幕を引く必要があるのだ。
「両国は既に終戦へ向けた交渉を開始したでしょう。今日まで弊国を援助してくださったこと、感謝申し上げます」
実際には兵員面でも物資面でも、中京国から援助を受けたわけではない。
あくまでも中京国は同盟締結に基づき、不干渉という立場を守ったに過ぎない。
だが、今後も大京国が華国と渡り合っていくためには中京国との同盟は必須。
ここは玄悠様の顔を立てておいたほうが良いだろう。
「そのことだが⋯⋯」
玄悠様にしては歯切れの悪い物言いに疑問を感じていると、地図に新たな数字が書き足される。
玄悠様の手によって書き加えられた数字は5万。
⋯⋯嫌な予感がする。
数字が書き加えられた場所は北陸における中京国と華国の国境線付近。
列島西部に兵力が必要なこの時期に、わざわざ北陸に5万もの兵を集めた理由。
明らかに国境警備とは違った目的を感じる。
「お前の言う通り華国は無視出来ない相手だ。我が国は華国へ侵攻する」
「ばかなっ!?」
人質の身で一国の王に声を荒げるのは非礼極まりない行為。
それこそ即刻斬り捨てられても文句は言えない。
けれども⋯⋯。
いくら何でも、これは許されることではない。
「再度申し上げますが、両国は終戦に向けた交渉を開始したはずです。多年にわたる援助に感謝申し上げ、まずは交渉の推移を見守って頂きたく⋯⋯」
「何を言っている。先程、お前自身が言った事だ。これは大京国を援助する意味合いも含まれている」
⋯⋯そういうことだったのか。
玄悠様は始めから、この展開に持っていく腹積もりだった。
そのために大京国の人間である僕の発言を促し、巧妙に話を誘導した。
玄悠様だけじゃない、氏雅様も竜臣様も同様。
非難を込めた視線を2人に向ければ、2人とも視線を避けるように顔を背ける。
大の大人がよってたかって⋯⋯恥ずかしくないのか。
「西方において偉誉国との衝突が懸念される現状では、それは悪手です。腹背に刀を受ければ必ず傷を負います」
「偉誉国の脇腹に匕首を突きつけ、華国の足に刀を突き立てるのも悪くあるまい」
⋯⋯煮え滾る感情を抑え言葉を重ねるも、きっとこれは止められない。
大京国と華国は互いに争い続けてきた歴史があるため、相手の顔が立つ加減というものが分かっている。
だが、中京国は一切の手加減なく新潟を攻め取るだろう。
そうなれば今後新潟は中京国と華国の係争地域となる。
もしも同盟維持を望むのなら大京国は中京国を援護しなければならない。
だが超大国同士の戦争に巻き込まれれば、大京国の財政など一瞬で破綻してしまう。
「⋯⋯唇滅べば歯寒々し、と言います。大京国は中京国にとっての唇にあたります。歯が唇を喰い破るようなことがあれば、北風の冷たさにその身を凍えさせるだけでしょう」
自分で成した発言は取消せない。
そしてそれを元に玄悠様を始めとする中京国の大人達は行動を起こそうとしている。
それが人質の戯言だったとしても、大京国の人間の口から出た発言に違いはない。
この状況に至っては食い下がる事しか出来ない。
「溺れる者は藁にも縋るというが⋯⋯まさしくそれだな」
「溺れる者には藁とて希望です。必死に生きようとする者を見殺しになさる」
「唇が厚すぎれば歯は圧迫され、薄すぎれば寒さを感じる。今の大京国では我が国の唇には成り得ぬ」
玄悠様の発言を最後に場が沈黙に包まれる。
きっぱり言い切ったその姿勢に、再考する気配は微塵も感じられない。
あくまでも僕の発言は利用されただけ。
最初から決まっていた国家の方針が今更覆る事は無い⋯⋯ということか。
「⋯⋯最早、申し上げることはございません。どうか帰国の御許可を賜りたく」
こうなった以上、人質として留まる理由は無くなった。
厳密に言えば僕にとっては無くなったという事。
華国と事を構えようとする中京国にとっては、これからが使いどころだろう。
大京国の大人達が切り捨てない限り、玄悠様は僕を締め具として大京国の動きを抑制できる。
「よかろう、帰国せよ」
「⋯⋯は?」
玄悠様が僕を手放す事は無いと思っていたが、返ってきた言葉は全く違うもの。
帰国せよ⋯⋯帰国できる?
「帰りたいのだろう?であれば、帰ればよい」
「⋯⋯」
あまりにあっさりとした受け答えに、否応なく警戒心が高まる。
人質から帰国を請われる事は珍しくないにしても、そこであっさり帰国を許す事はほぼ無い。
よほど国家間の友好が高まっているなら話は別だが、中京国と大京国の今後は良くない方向へ進むだろう。
その状況下であっさり帰国を許した考え、その裏に何があるのか。
「ただし、帰国前には必ず挨拶に来るように」
「玄悠様、あの⋯⋯」
「疑うようならはっきり言ってやろう。薄汚くも間諜を為したお前は、もう要らぬ。それだけだ」
「⋯⋯⋯⋯承りました」
⋯⋯分かっている。
人質の扱いなんて、僕の価値なんて、こんなものだ。
それでも強く拳を握りしめ、奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばる。
分かっていたのに、それを望んだのに、要らないと言われて心がさざめき立っている。
大きく息を吸い、零れそうな涙を必死で堪える。
こんな所で涙なんて見せようものなら、お祖父様の顔に泥を塗る事になる。
ただでさえ劣る人間が泣いてしまえば醜いだけ。
去るのであれば、最後まで毅然とした姿勢を貫いて去らなければ⋯⋯。
「失礼します」
声の震えは隠しようが無い。
それでも出来るだけ震えを抑えた声を残し、僕はこの場を後にした――。